1999N5句

May 0151999

 落葉松の空の濡れをり聖五月

                           古賀まり子

やかな五月の到来だ。……おっと、イケない。「爽やか」は秋の季語だから、俳句愛好者たるものは「清々しい」とでも言い換えなければなるまい。同様の理由から、甲子園球児のプレーを「爽やか」と言うのは間違いだと、さる「ホトトギス」系の俳人が新聞で怒り狂っていたのを読んだことがある。不自由ですねえ、俳人は(笑)。さて、掲句はまことに清々しくも上品な詠みぶりだ。雨上がりか、あるいは霧がかかっているのか。落葉松林の空を仰ぐと、大気はしっとりと濡れており、そこに一条の朝の光がさしこんでいるという光景だろう。たしかに「聖五月」という言葉にふさわしい「聖性」が感じられる。ところで、この「聖五月」という言い方は、阿波野青畝に「聖母の名負ひて五月は来たりけり」とあるように、元来はカトリックの「聖母月」に発している。「マリア月」とも言う。だから、いまでももちろん「聖母」に崇敬の念をこめた句も詠まれてはいるが、おおかたの俳人は掲句のように、宗教とは無縁の感覚で「聖五月」を使っている。それこそ「清々しさ」から来る日本的な「聖性」を表現している。西洋語を換骨奪胎して、別の輝きを与えた季語の成功例の一つだろう。(清水哲男)


May 0251999

 朝顔を蒔くべきところ猫通る

                           藤田湘子

顔は、八十八夜の頃に蒔くのがよいとされる。作者はたぶん、今日蒔こうか、明日にしようかと決めかねている状態にあるのだろう。蒔くのならばあのあたりかなと、庭の片隅に目をやると、そこを野良猫が呑気な顔でノソノソと通り過ぎていったというのである。たったこれだけのことであるが、このようなシーンを書きとめることのできる俳句という詩型は、つくづく面白いものだと思わざるを得ない。この句は鋭い観察眼の所産でもなければ、何か特別なメッセージを含んでいるわけでもない。しかし、なんとなくわかるような気がするし、なんとなく滑稽な味わいもある。この「なんとなく」をきちんと定着させるのが、俳人の腕である。初心者にも作れそうに見えて、しかし容易には作れないのが、この種の句だ。たとえば、種を蒔いたところを猫が通ったのならば、素人にも作れる。それなりのわかりやすいドラマがあるからだ。が、このように何も言わないで、しかも自分の味を出すことの難しさ。百戦練磨の俳人にして、はじめて可能な句境と言えよう。最近の私は、こうした句に憧れている。『一個』(1984)所収。(清水哲男)


May 0351999

 憲法記念日何はあれけふうららなり

                           林 翔

の気分が、今日ではまずは一般的だろう。「憲法記念日」というよりも、ゴールデン・ウイークにリンクした休日としての位置づけだ。かまびすしい憲法論議などはさておいて、「何は(とも)あれ」上天気であることに気分が傾いている。正直な句だ。昔から探してはいるのだが、憲法記念日の句に、これというものが見当たらない。新憲法が施行されたのは、戦後二年目(1947)の今日五月三日。画期的な戦争放棄の条文を持つ新しい憲法は、当時の多くの人々に歓迎された。たとえアメリカからのお仕着せ憲法ではあっても、「何はあれ」戦争との縁切り状は敗戦国民の気持ちと合致した。その喜びを詠んだ句がいくつかあってもよさそうなのに、なかなか見い出せないできた。なぜだろうか。急にできた祝日なので、季節感を伴うには歳月が必要だったからかもしれない。「憲法」という固いイメージが、俳句に溶け込めなかったのかもしれない。季語としては、字余りで長すぎることもあったろう。しかし、どこかの誰かが一句くらいは、当時の沸き立つような心の内を詠んでいるはずである。これからも、探しつづけたい。(清水哲男)


May 0451999

 遠つ世へゆきたし睡し藤の昼

                           中村苑子

棚の前に立つと、幻惑される。まして暖かい昼間だと、ぼおっとしてくる。おそらくは、煙るような薄紫の花色のせいもあるのだろう。桐の花にも、同じような眩暈を覚えたことがある。「遠つ世」とは、あの世のこと。よく冗談に「死にたくなるほど眠い」と言ったりするけれど、句の場合はそうではない。あえて言えば「眠りたくなるほど自然に死に近づいている」気分が述べられている。この句は、作者自身が1996年に編んだ『白鳥の歌』(ふらんす堂)に載っている。表題からして死を間近に意識した句集の趣きで、読んでいるとキリキリと胸が痛む。と同時に、だんだん死が親しく感じられてもくる。つづいて後書きを読んだら、さながら掲句の自註のような部分があった。「……最近見えるものが見えなくなったのに、いままで見たいと思っても見えなかったもの、聞きたいと思っても聞こえなかったもろもろのものが、はっきり見えたり聞こえたりするようになったので、少々、心に決することがあり、この集を、みずからへおくる挽歌として編むことにした」と。決して愉快な句ではないが、何度も読み返しているうちに、ひとりでに「これでよし」と思えてきて、おだやかな気分になる。(清水哲男)


May 0551999

 力ある風出てきたり鯉幟

                           矢島渚男

田峠の初期に「寄らで過ぐ港々の鯉のぼり」があって、これらの鯉幟は海風を受けているので、へんぽんと翻っている様子がよくうかがえる。が、内陸部の鯉幟は、なかなかこうはいかない。地方差もあるが、春の強風が途絶える時期が、ちょうど鯉幟をあげる時期だからだ。たいていの時間は、だらりとだらしなくぶら下がっていることが多い。そこで、あげた家ではいまかいまかと「力ある風」を期待することになる。その期待の風がようやく出てきたぞと、作者の気持ちが沸き立ったところだろう。シンプルにして、「力」強い仕上がりだ。鯉幟といえば、「甍の波と雲の波、重なる波の中空に」ではじまる子供の歌を思いだす。いきなり「甍(いらか)」と子供には難しい言葉があって、大人になるまで「いらか」ではなく「いなか」だと思っていた人も少なくない。「我が身に似よや男子(おのこご)と、高く泳ぐや鯉のぼり」と、歌は終わる。封建制との関連云々は別にしても、なんというシーチョー(おお、懐しい流行語よ)な文句だろう。ほとんどの時間は、ダラーンとしているくせに……。ひるがえって、鯉幟の俳句を見てもシーチョーな光景がほとんどで、掲句のように静から動への期待を描いた作品は珍しいのだ。俳句の鯉幟は今日も、みんな強気に高く泳いでいる。『翼の上に』(1999)所収。(清水哲男)


May 0651999

 毒消し飲むやわが詩多産の夏来る

                           中村草田男

ささか、体調がすぐれないのだろう。作者は毒消しを飲んでいるのだが、しかし、いよいよ夏がやってきたということで、憂鬱な心は吹っ飛んでいる。さあ、どんどん俳句を書くぞと、その気持ちが体内の毒に勝っている。実際、草田男には夏の句が多い。季節ごとに分冊された歳時記を見ても、夏の巻がいちばん分厚いから、夏は俳人一般にとっても最も創作欲がわく季節なのかもしれない。ところで、「毒消し」はその昔に富山の薬売りが置き薬としていた一種の解毒剤だ。何の毒を消すのかは定かでないままに、私も腹痛のときに飲んだことがある。薬売りは年に一度、定期的に各家を訪問して、昨年置いて帰った薬の飲まれた分だけの料金を徴収し、また新しい薬を独特の木箱に補充して去っていく商売だった。医療機関や救急医療制度が発達していなかった時代の、なかなか巧みに考えられたシステムよる商法で、覚えている読者も多いだろう。貧乏な我が家では、この毒消しをいかに痛みを我慢して飲まないですますかが、切実なテーマであったことを思い出す。(清水哲男)


May 0751999

 山葵田に醤油どころの御一行

                           武田夕子

ふふっと、思わずも。現代風談林派的一句とでも言うべきか。故・林家三平ならば「どこが面白いのかと言うと……」と、得意満面でやるところだ。でも、刺身や鮨を知らない外国人には、解説しても可笑しさは伝わらないだろう。醤油どころというのだから、たとえば千葉県野田市あたりの観光客御一行(ごいっこう)が、信州の山葵田(わさびだ)を訪れたというわけだ。これに漁業組合の団体でも合流したら、立派な刺身になる(笑)。ただし、こういう句は一瞬面白いのだが、すぐに飽きてしまうのも事実だ。その点では、一度しか使えない小咄のネタに似ている。山葵といえば、最近「山葵ビール」なるものを飲んだ。正確に言えば「山葵エキス入り発砲酒」。岩手の某酒造が売り出したこの珍奇な飲み物は、山葵の香が口いっぱいに広がって、最初の一杯はなかなかに美味い。期待した山葵の辛味は抜いてある。が、それこそ一瞬は美味いのだが、二杯目からは逆にエキスの香が鼻についてきて、極端に味が落ちる感じだった。これまた、現代風談林派的発砲酒というところか。話題性は十分だが、永続性となると難しい。「朝日俳壇」(朝日新聞・1999年5月2日付 [金子兜太選] )所載。(清水哲男)


May 0851999

 ビヤホール椅子の背中をぶつけ合ひ

                           深見けん二

夏よりも、初夏のビヤホールのほうが楽しい。咽喉が乾く真夏はビールに飢えるという感覚があって、どうしても飲み方がガサツになってしまう。そこへいくと、初夏のうちは乾きにも余裕があるので、楽しむという飲み方ができるからだ。椅子の背中がぶつかりあっても、それすらが嬉しいという感じ……。句のビヤホールがどこかは知らないが、椅子がぶつかるからといって、小さな店とは限らない。銀座の「ライオン」などは大きな店だけれど、テーブルをばらまいたように配置しているので、しょっちゅうぶつかる。愛する店の一つだ。いちばん好きだったのは、まだ二十代の頃、お茶の水は文化学院のそばにあったビヤガーデンだった。文字通り、庭で飲ませてくれた。いまどきのカフェテラスとやらのように埃だらけになることもなく、新緑に染まりながら飲むビールの味は、我が青春の味そのものであった。勤め先の出版社が駿河台下だったので、仲間とよく出かけて行ったっけ。いつの間にか、つぶれてしまったのは寂しい。こんなことを書いているとキリがなくなる。が、もう一つ。この季節に意外にもよい雰囲気なのは、有楽町駅近くの「ニュー・トーキョー」だ。なかなか窓際には坐れないが、明るいうちに飲んでいると、街路樹の緑も程よく、道行く人もそれぞれ格好良く、しばし陶然となる(はずである)。『花鳥来』(1991)所収。(清水哲男)


May 0951999

 そら豆剥き終らば母に別れ告げむ

                           吉野義子

さしぶりに実家に戻っている娘が、老いた母のもとを去りがたく思っている。もう少し母と一緒にいたいと思いながらも、そろそろ出発しなければ、列車の時間に間に合わない。母の夕餉のためのこの蚕豆(そらまめ)をむき終わったら、帰ることにしようと心に決めている。どこか、短歌的な世界を思わせる(字余りの技巧)情感溢れる作品だ。それはそれとして、父と子との場合は、こういうふうにはならない。「じゃ、また……」などと、そっけなく息子は帰っていく。淡白なものだ。そこへいくと、母と娘の情愛の濃さは、私など男にとっては不思議に思えるほどである。ひさしぶりの邂逅にも、すぐに口喧嘩をはじめたかと思えば、次の瞬間にはけろりと笑い合ったりしている。まことに母娘の関係は測りがたしと、我が家の女性たちを見ていても、つくづくと思ってきた。そんな関係のなかで、娘は一心に蚕豆をむいている。さみどり色の大粒の蚕豆を台所に残して、娘はまた彼女の実生活に戻っていくのだ。束の間としか思えなかった母親との時間。別れた後に、この蚕豆のきれいな色彩が、娘より母への万感の感情を手渡してくれるだろう。(清水哲男)


May 1051999

 愛鳥の週に最たる駝鳥立つ

                           百合山羽公

鳥週間は、五月十日より一週間。ああ、駝鳥も鳥だったんだ……と、ちょっと意表を突かれる句。もちろん駝鳥も鳥には違いないが、愛鳥週間というとき、飼われて生きている鳥は「愛」の対象からは除外されている。愛鳥の発想が、山林や自然保護に発しているからだ。そこで作者は、あえて「最たる」と強調して駝鳥を立たせている。高村光太郎の「駝鳥」の詩ほどの社会意識はないにしても、どこかで「愛鳥」の勝手を皮肉っている。駝鳥の超然とした姿を通して、理不尽なことよ、と言っている。また今日では、飼われていなくても、愛鳥の心には不都合な鳥もいる。カラスなどは、その「最たる」ものだろう。戦後に書かれた柴田宵曲の文章に、こんな件りがある。「かつて先輩から聞かされた話によると、以前は東京の空も、麗かな日和には鳶(とび)や鴉(からす)が非常に多く飛んだものだが、今は少しも見えない」(『新編・俳諧博物誌』岩波文庫)と。鳶はともかく、いまや鴉は我が物顔で東京の空を飛んでいる。とても「カラスといっしょに帰りましょ」という童謡の気分にはなれない。句の「駝鳥」を「カラス」に変えても、一向にかまわない「愛鳥週間」とはあいなってきた。(清水哲男)


May 1151999

 笋の皮の流るる薄暑かな

                           芥川龍之介

(たかんな)は筍(たけのこ)。「たかんな」なんて漢字がワープロに仕込まれているはずはないと思いつつ、試しに打ってみたら一発で出てきた。びっくりした。俳人以外の誰が、いまどき「たかんな」の漢字を必要とするのだろう。よほどの「筍」好きが作ったワープロ辞書なのだろうか。どうもワープロ・ソフト製作者の意図には不分明なところがある。……と書いて、アップして約9時間後、読んでくださった坂入啓子さんから「たかんな」の漢字が間違っているのではとの指摘があった。あわててよくよく見たら、たしかに大間違い。一発で出てきたのは、「笋」ならぬ「箏」という字だった。辞書の間違いであると同時に、気がつかなかった私の失策でした。ごめんなさい。ちなみに使用辞書はEDWORD6.0版。というわけで、以下が昨日と同じ本文となります。……句意は簡単明瞭。笋の皮が小川を流れていく様子が、ちょうど少し汗ばむような陽気にマッチしたというのである。筍は成長につれて皮を脱ぐが、それが流れてきたというのではなく、誰かが上流で食べるために剥がした皮が流れてきたと解すべきだろう。夏めいてきた気分が、見えない上流の人の食事の用意によって、鮮やかにとらえられている。昔の川は、文字通りの生活用水でもあったので、このような情感も流れてきたというわけだ。川を意識するということは、単に眼前のそれを意識することではなかった。見えない上流も下流も、自然に同時に意識したということで、この句は、読者にもそのような昔の生活者の目がないと、理解はできない。現代の川は、この意味では、もはや川ではありえないと言うこともできそうだ。『我鬼全句』所収。(清水哲男)


May 1251999

 蟻地獄松風を聞くばかりなり

                           高野素十

ある昆虫の名前のなかで、いちばん不気味なのが「蟻地獄」だろう。地上を這わせると後退りするので、別名「あとずさり」とも言う。こちらは、愛嬌がある。要するに、ウスバカゲロウのちっぽけな幼虫のことだ。一見して、薄汚い奴だ。命名の由来は、縁の下や松原などの乾いた砂の中に擂り鉢状の穴を掘り、滑り落ちる蟻などを捕らえて食べるところから来ている。蟻の様子を観察したことのある人なら、ごく普通に「蟻地獄」の罠も見ているはずだ。句は、そんな蟻地獄が、はるか上空を吹き過ぎる松風の音を聞いているというところだが、これまた不気味な光景と言うしかない。乾いた蟻地獄の罠と、乾いた松風と……。完全に人間世界とは無縁のところで、飢えた幼虫がじいっと砂漠を行くような風の音を聞いているという想像は秀逸にして、恐ろしい。素十はしばしば瑣末的描写を批判された俳人だが、この句は瑣末どころか、実に巨大な天地の間の虚無を訴えている。徹底した写生による句作りの果てでは、ときに人間が消えてしまう。したがって、こんなに荒涼たる光景も出現してくる。『初鴉』所収。(清水哲男)


May 1351999

 蝶低し葵の花の低ければ

                           富安風生

といえば、普通は「立葵(たちあおい)」のことを言う。句も、立葵を詠んでいる。成長すると人の背丈ほどになり、花色は白、赤、ピンクなど多様で、茎の下のほうから咲き上るのが特長。そんな葵の生態を詠んだ句で、すなわち花に来る「蝶低し」だから、いまだ葵の花が下の方に咲いている初夏の候と知れるのである。「なるほどねえ」と、読者を感心させる理詰めの句だ。浪花節の「ナニがナニしてナンとやら……」にも似ており、俳諧的にもとても面白い。詩は発見が命だから、この技法による句は富安風生の詩の命である。この句が出た後に、「なるほどねえ」と思った何人もの俳人が、同工異曲の句を書いているけれど、いずれもいただけない。他人の命に、いくら接近してみても、ついに命は共有不可能だからだ。風生には、一見のんびりとした境地の句が多く見られるが、その技法においては、すこぶる鋭意な発見と冒険に満ちている。誰か、富安風生の生涯斬新でありつづけた技法について、腰を入れた文章を書いてくれないものか。『草の花』所収。(清水哲男)


May 1451999

 神田川祭の中をながれけり

                           久保田万太郎

面から見て、有名な神田明神の祭礼かと思いきや、浅草榊神社(私は場所も知りません)の夏祭を詠んだ句だという。となれば、そんなに大きな規模の祭ではないだろう。浅草神社の三社祭のように観光客が押し寄せる荒祭でもなく、小さな町内の人々がお互いに精一杯祭を盛り上げるなか、神田川はいつものように静かに流れているという情景。つつましい暮らしのなかの手作りの祭の味わいが、じわりと読者の胸に、川面に写る祭提灯の影のように染み込んでくる。井の頭に源を発する神田川(神田川上水)は、いかにも都会の川らしく、流れる場所や季節によって複雑に表情を入れ替える。そんな神田川の一面を、万太郎が鮮やかに切り取ってみせた句だ。ちなみに、句の季題は「祭」で夏だけれど、古くは単に「祭」というと、ちょうどこの時期に行われる京都の「葵祭」だけを意味していた。古典を読む際には、こんな知識も必要だ。でも、そんな馬鹿なことを、誰が決めたのか。もとより、千年の都が勝手に決めたのである。昔の都は、とてもエラかったから。『草の丈』所収。(清水哲男)


May 1551999

 夏場所や汐風うまき隅田川

                           牧野寥々

場所。相撲好きの人にとってはたまらないだろう。しかも、一年でもっともビールがうまい時でもある。初日と二日目には、曙が休養明けにもかかわらず、無気力相撲で負けてしまった。最近は、大相撲も面白くない。それにつけてもこの句を見ると、昔の東京の隅田川は良かっただろうなあと思う。「汐風うまき」とは良くいった。我々が知った頃の隅田川は、まさにドブの臭いであったが……。もちろんこの句は、そのドブと化した隅田川の「昔」を偲んでのものに違いない。だからこそ、江戸っ子ならではの思いがこもっているのだ。作者の牧野寥々は明治45年(1912)東京生まれ。少年の頃よりの松根東洋城の「渋柿」門。こういう句は、こういう経歴のところからしか生まれない。『現代秀句選集』(別冊「俳句」1998年9月刊)所載。(井川博年)


May 1651999

 生きてゐるしるしに新茶おくるとか

                           高浜虚子

争中(1943)の句。句集では、この句の前に「簡単に新茶おくると便りかな」が置かれている。簡単な便りというのだから、短い文面だ。虚子が読んだのは葉書だろうか。当時の葉書は紙質も粗悪で、現在のそれよりも一回り小型だった記憶がある。簡単の上にも簡単に書かざるを得ない。「新茶」を送る理由は、ただ「生きてゐるしるし」とのみ。今の世にこの句を置いてみると、なんだかトボけた味わいの作にも読めるが、戦時中なのだから、そんなに呑気な気分では詠まれてはいない。「生きてゐるしるし」の意味が、まったく違うからだ。今だと「ご無沙汰失礼。齢はとったけど何とかやっています」くらいの意味になろうが、当時だと「戦火激しき折りながら、幸運にも生き延びています」ということになる。作者はその短い文面をくりかえして読み、「こんな時節に、無理をして新茶など送ってくれなくてもよいのに」と、贈り主の厚情に謝している。したがって「おくるとか」の「とか」は、「送ってくるとか何とか、そのようなことが書いてある」の「とか」ではあるけれど、そんな平板な用語法を感性的に越えている。感謝の念が、かえってはっきり物を言うことをためらわせているのである。『六百句』(1946)所収。(清水哲男)


May 1751999

 日輪を送りて月の牡丹かな

                           渡辺水巴

の王者と呼ばれる豊麗な牡丹の花は、蕪村の有名な「牡丹散りて打かさなりぬ二三片」をはじめ、多くの俳人が好んで題材にしてきた。巧拙を問わなければ、俳句ではもう何万句(いや、何十万句かもしれない)も詠まれているだろう。いまやどんな牡丹の句を作っても、類句がどこかにあるというほどのものである。すなわち、作者にとって、なかなかオリジナリティを発揮できないのが、牡丹の句だ。この花を詠んで他句に抜きん出るのは至難の業だろう。原石鼎のように「牡丹の句百句作れば死ぬもよし」とまで言った人がいる。とても、百句など作れそうもないからだ。だから、誰もが抜きんでるための苦心の工夫をほどこしてきた。で、水巴の句は見事に抜きん出ている一例ではあるが、しかも名句と言うにもやぶさかではないけれど、なんだかあまりにも技巧的で、逆に落ち着かない感じもする。「月の牡丹」とはたしかに意表を突いており、日本画を見るような趣きもあり、テクニック的には抜群の巧みさだ。しかし、悲しいかな、巧いだけが俳句じゃない。「日」と「月」と大きく張って、しかし、この句のスケールのなんという小ささだろうか。言葉をあやつることの難しさ。もって小詩人の自戒ともしたいところだが、しかし、やはり図抜けた名句ではありますぞ。『水巴句集』所収。(清水哲男)


May 1851999

 五月雨や人語り行く夜の辻

                           籾山庭後

月雨(さみだれ)は旧暦五月の雨だから、梅雨と同義と読んでよいだろう。そぼ降る小雨のなかの夜の辻を、何やら語り合いながら行く人ふたり。それぞれの灰色の唐傘の表情が、ふたりの関係を示しているようだ。だが、もとより作者の関心は話の中身にあるのではなく、情景そのものが持つ抒情性に向けられている。さっとスケッチしているだけだが、情緒纏綿たる味わいがある。籾山庭後は、子規を知り、虚子を知り、永井荷風の友人だった出版人。この句は大正五年(1916)二月に自分の手で出版した『江戸庵句集』に収められている。なぜ、そんなに古い句集を、私が読めたのか。友人で荷風についての著書も多い松本哉君が、さきごろ古書店で入手し、コピーを製本して送ってくれたからだ。「本文の用紙、平綴じの針金ともに真っ赤に酸化していて崩壊寸前」の本が、八千五百円もしたという。深謝。いろいろな意味で面白い本だが、まずは荷風の長文の序文が読ませる。この句など数句を引いた後に、こう書いている。「君が吟詠の哀調はこれ全く技巧に因るものにあらずして君が人格より生じ来りしものなるが故に余の君を俳諧師として崇拝するの念更に一層の深きを加へずんばあらず」。(清水哲男)


May 1951999

 先ず頼む椎の木もあり夏木立

                           松尾芭蕉

時中、日本の少年が南洋の島の王様になって活躍する『冒険ダン吉』(島田啓三)という人気漫画があった。リアルタイムで読めた最後の世代に属する私などに魅力的だったのは、ストーリーよりも、ダン吉や村人たちにはまったく飢餓の怖れがなかったというところだった。島のあちこちにはバナナの樹が群生しており、空腹になれば、彼らは好き勝手にバナナを食べればよかったのである。日常的な飢餓状態にあった東京の小学生(正式には「国民学校生」)には、なんとまぶしい南洋生活に写ったことか。彼らには「先ず頼む」バナナという強い味方があったのだ。ここで芭蕉も、食料がなくなれば「椎の木」を頼むことができるさ、と言っている。いよいよとなったら椎の実があるじゃないかと。その気持ちが、明るい夏木立にキラキラと反射している。芭蕉は奥羽北越の旅を終えてから、近江は石山近くの庵に入って静養した。「単に(ひたぶるに)閑寂を好み、山野に跡を晦(くらま)さんとにはあらず、やゝ病身人に倦(う)みて世を厭ひし人に似たり」(『幻住庵記』)という境地。もとより、芭蕉とダン吉の心情には水と油ほどの違いがあるが、双方の読者としては「先ず頼む」ものがあるという一点において、羨望の念を禁じ得ない。ところで、あなたの「先ず頼む」ものとは何でしょうか。漫画的蛇足ながら、バナナは「バショウ」科に属しています。(清水哲男)


May 2051999

 孤児たちに映画くる日や燕の天

                           古沢太穂

書に「港北区中里学園にて」とある。戦災孤児の収容施設かと思われる。楽しみにしていた巡回映画がやってくる日の、子供たちの沸き立つような喜びの気持ちが「燕の天」に極まっている。こうした施設にかぎらず、敗戦後の一時期、子供たちにとっての映画は「くる」ものであった。大都会ではどうだったのかは知らないが、私が通っていた村の学校にも、ときどき巡回映画がやってきた。そんな日は、嬉しくて授業にも身が入らない。昼食が終わると、みんなで机と椅子を教室の片側に寄せ、窓には暗幕がわりに社会科で使う大きな地図などを貼り付けて準備した。そこへ、16ミリ映写機とフィルムの缶を抱えたおじさんと先生が登場。拍手する子もいたっけな。おじさんはまず映写機の電源を入れ、シーツのようなスクリーンに向けて光を放ち、ピントを合わせる作業にかかる。僕らは、その段階から固唾をのんで見守ったものだ。そんなふうにして、数多くの映画を見た。谷口千吉の『銀嶺の果て』や黒沢明の『酔いどれ天使』といった大人向きの作品も、どういうわけか上映された。ラブ・シーンになると、先生があわててレンズの前を押さえていた。古沢太穂は共産党員で、苛烈な労働闘争の句も多いが、子供を見る目は限りなく優しかった。「巣燕仰ぐ金髪汝も日本の子」。「汝(なれ)」は米兵を父とする混血児である。『古沢太穂句集』(1955)所収。(清水哲男)


May 2151999

 顔よせて鹿の子ほのかにあたたかし

                           三橋鷹女

語は「鹿の子(かのこ)」で、夏。単に「鹿」と言えば、秋の季題となる。親鹿の後について歩く鹿の子があまりに可愛らしいので、思わず顔を寄せると、ほのかにあたたかい体温を感じた。女性ならではの優しい心情だ。まず、おおかたの男はこういうことをしない。いや、できない。「頬よせて」ではなく「顔よせて」に注目。「顔をよせる」のだから、目はしっかりと鹿の子をとらえている。そしておそらくは、物怖じしない鹿の子の目も、作者を見つめ返しているのだろう。この交感のありようが、なおさらに女性を感じさせるのだ。この句に「母性を感じる」人もいると思うが、私などには「母性」よりも「女性」性に満ちた作品と写る。小さいころから、女性には自然にこういうことをする「性(さが)」が備わっていると思っている。やたらと「カワイイッ」を連発する女性には辟易させられるが、それもまた、こうした行為に自然につながっていく「性」のなせるところなのかもしれない。1936年の作。『向日葵』所収。(清水哲男)


May 2251999

 泣けとこそ北上河原の蕗は長けぬ

                           岸田稚魚

木歌集『一握の砂』に「やはらかに柳あをめる北上の岸邊目に見ゆ泣けとごとくに」(原文は三行の分かち書き)がある。作者は、もとよりこの歌を百も承知で作っている。「柳」に対して「蕗」を持ってきた。このとき、稚魚は六十代半ば。若さ溢れる啄木短歌を向こうにまわして「泣けとこそ」と詠んだ作者の心根は、どんなものだったろうか。啄木の見ている北上川はあくまでも明るいが、稚魚の立っている北上河原は、曇り空の下にあるようだ。そこから「柳」も目には入るのだけれど、もっと下方にびっしりと生えている「蕗」のほうに自然と心を奪われている。成長した蕗は、暗緑色だ。たとえ陽射しがあったとしても、柳のように陽気な色ではない。ただし、暗い色をしているからといって、その色彩やたたずまいが心に染みいらないというわけではない。啄木のような若者にはわからなかったのか、あるいはわかろうとしなかったのか。ならば、ずばりと私(作者)が北上の魅力を言い当ててみせようというのが、稚魚の気概であったろう。私にも、少しはこういうことがわかるようになってきたようだ。悲しくもなし、かといって嬉しくもなし。『花盗人』(1986)所収。(清水哲男)


May 2351999

 わが夏帽どこまで転べども故郷

                           寺山修司

賞ならぬ感傷。中学から高校時代にかけて、偶然の契機から見知った才能を忘れられない二人は、ともに故人となった。一人は漫画の小野寺章太郎(後の石ノ森章太郎)であり、もう一人は俳句の寺山修司であった。小野寺章太郎は「漫画少年」「毎日中学生新聞」で、寺山修司は「螢雪時代」の投稿欄で作品と名前を知った。私も投稿していて、二人には、いつも負けていた。思い返してみると、小野寺も寺山も、才能は秀抜だったとしても、ともに寂しい少年であったような印象がある。田舎の子ゆえの寂しさが、だからこその都会的センスへの渇望が、作品を紡ぎだすバネになっていたのだと思う。戦後間もなくの(純白の)「夏帽」だなんて、映画のなかの誰かがかぶっていたかどうかくらいのもので、句作した当人も目撃したことはなかったろう。そのあたりの田舎者ならではの「憧れのいじらしさ」が、修司の句には散見される。そして、この「いじらしさ」は、我ら全国の投稿少年たちの心情にも共通していた。修司を評して「アンファン・テリブル」と言った人もいるけれど、そうだったろうか。田舎の子が、何事かをなさんと欲するならば、そんなポーズを取るしかなかったということでしかないだろう。私がこの句を好きなのは、そんなポーズが隠しようもなく露われていて、とても「いじらしい」からである。俳誌「麦」(1954年9月号)に初出。(清水哲男)


May 2451999

 大阪も梅田の地下の冷しそば

                           有馬朗人

だ文部大臣ではなかった1991年の句。句集だけを開いても、とにかく国内外の旅の多い人だ。外国に取材した俳句も数多い。が、北欧だとかイスラエルだとかと私の未知の土地での作品は、そういうものかと思うだけで、よくはわからない。「神学者西瓜の種を吐きあひて」(イスラエル七句のうち)。そんななかで、掲句のような世界に出会うとホッとする。よくわかる。梅田近辺には大きなホテルがいくつかあるから、たぶん作者はそこに宿泊したのだ。公務での出張だろう。東京行きの新幹線を利用するには、梅田の駅(大阪駅)から新大阪駅まで電車に乗る必要がある。しかし、新幹線の発車時刻までには少々時間があるので、あらかじめ腹拵えをしておこうと、広い梅田の地下街のとある店で「冷しそば」を注文したというのである。「冷しそば」は大阪名物でも何でもなく、とりあえずすぐに出てくるものを、そそくさと食べるというだけのこと。「大阪も」と大きく振り出して、ありふれた「冷しそば」に行き着き、作者は半ば苦笑している。出張のあわただしい気分を、食べ物を通じてとらえてみせたところが面白い。『立志』(1998)所収。(清水哲男)


May 2551999

 心いま萍を見てゐるにあらず

                           清崎敏郎

という漢字を知らなくても、じいっと眺めているうちに、その実体が姿を現わしてくる。平らな水の上(水面)に草が浮いている。すなわち「うきくさ」だ。「苹」とも書く。漢和辞典によると、はじめは上の艸がなく、後に加えて字義を明確にした文字だそうだ。だから、音読みでは「へい」となる。こうやって覚えると二度と忘れないが、皮肉なことにたいていの人が読めないので、覚えがいはない。今は「浮草」と書くのが一般的だろう。句は、作者二十代の作。一読、老成した感覚を感じるが、よく読むと、若さゆえの抽象性が滲み出ている。池の畔にたたずみ、我が目はたしかに萍をとらえているけれど、心は遠く別の場所にある。自省か煩悶か、あるいは何事かについての思索なのか。ともあれ、いまの我が姿から他人が想像できるような場所に、俺の心は存在してはいないのだ。と、この決然とした物言いも、若さの生み出した表現と言えるだろう。作者は虚子の流れをくみ、花鳥諷詠に徹した人だが、その意味からすると異色の作である。さきごろ(1999年5月12日)鬼籍の人となられた。合掌。『安房上総』(1964)所収。(清水哲男)


May 2651999

 よぼよぼの虻を看とらぬ地球哉

                           永田耕衣

さなものと大きなものとを対比させたり衝突させたりして、そこにポエジーを発生させる技法は、詩一般にとって親しいものだ。それにしても、虻(あぶ)と地球とはケタ外れの大きさの違いである。しかも、死に瀕している虻とまだまだ盛んに命を燃やしている地球の、二者の勢いの差も甚だしい。だが、不思議なことに、この句の虻は地球よりもむしろ大きく見えている。いきなり「よぼよぼの虻」とクローズアップしているためでもあるが、考えてみて、私たちは地球を虻を見るようには見たことがないせいだと思った。つまり、ここで虻は限りなく具象的な物体であり、地球は限りなく抽象的なそれである。そこで、句の眼目は小さなものと大きなものとの対比だけではなくて、具体と抽象との対比にもずれ込んでいく。さらに作者は、地球という抽象的物体に「看とらぬ」という人間的な意志を持たせた。これで、ぐんと地球が小さく写る仕掛けだ。もちろん、作者はこのように順番を踏んで書いたのではなく、あくまでも一気呵成に詠んでいるわけだが、無粋に分析すると、こういうことだろう。この仕掛けのために、世界は少しも暗くない。「これでよし」と、すっきりとした明るいニヒリズムが感じ取れる。『殺佛』(1978)所収。(清水哲男)


May 2751999

 いとけなく植田となりてなびきをり

                           橋本多佳子

植えが終わって間もない田。植えられた早苗はまだか細くも薄緑色で、鏡のような水田を渡る五月の風に、いささか頼りなげになびいている。しばらくすると、これら「いとけなき」ものたちも成長して、見事な青田に変わっていくわけだ。さながら人間の赤ん坊を見ているような思いから、多佳子は「いとけなく」と詠んでおり、一見平凡な形容とも受け取れるが、生きとし生けるものへの愛情こまやかな優れた表現だと思う。青年期以降、私の周辺には水田がなく、田圃のなかで育った人間としては、寂しい思いをしてきた。たまさかの旅で、車窓から田圃が見えると、反射的にいつも目が行く。田圃で働く人の姿がちらと見えると、目に焼きつく。先日の遠野の旅では、実にひさしぶりに植田を間近に見ることができて、観光用の名所や建物などよりも、よほど目の保養になった。立ち止っては、写真に撮ることもした。こんな旅の者もいるのである。我が山陰の田舎でも、田植えが終わったころだ。終わると、大人たちは「泥落とし」と称し、集まって一杯やっていたことを思いだす。(清水哲男)


May 2851999

 穀象に青き空など用はなし

                           成瀬櫻桃子

を干すと、ぞろぞろと出てきた。穀象(こくぞう)とは、よくも名づけたり。体長三ミリほどの小さな虫のくせに、巨大な象にあやかった命名がなされている。別名「米の虫」とも呼ばれるくらいで、こいつが米に取りついたら最後、象のような食欲を発揮して食い荒らしまくるのだから、たまらない。昔は米櫃によく発生し、米を研ぐときによほど注意しないと、そのまま炊き込んでしまうというようなことが起きた。オサゾウムシ科の甲虫である。そんな穀象だから、まったく青空なんて関係がない。用はない。といっても、句は穀象の気持ちを代弁しているわけではなく、作者みずからの心持ちを穀象のそれに擬しているのである。「ふん、どうせ俺は穀象さ」とみずからをおとしめることで、「青き空」やそれが象徴するものを、単純に馬鹿みたいに賛美する世の人々に背を向けている。青空がひろがると、ラジオのパーソナリティとしての私は、もう二十年間も「気持ちがいいですねえ」などとマイクに向けてしゃべってきた。常に、心のどこかでは、青空に単純には好感を抱けない人々の存在を気にしながらも……だ。まことに罪深い職業である。『風色』(1974)所収。(清水哲男)


May 2951999

 休日は老後に似たり砂糖水

                           草間時彦

だ「老後」というにはほど遠い、作者四十代後半の句。だから「老後に似たり」なのであるが、休日が老後に似ているのは、ふと思いついて砂糖水を飲んでみたりする心持ちが、老後の所在なさを連想させたからだろう。今日「砂糖水」と言っても若い人には通じないけれど、なんのことはない、砂糖を水に溶かしただけの飲み物だ。砂糖が貴重だった時代、氷水にして客などにふるまったことから「砂糖水」は立派に夏の季語の仲間入りを遂げている。でも、どことなく頼りないのが砂糖水の味だ。それが休日のように時間だけはあっても、なんだか薄味でつまらなそうな「老後」のありようとして、作者の視野には写っている。もとより、自分の「老後」のイメージは人さまざまであり、どんなふうに想像するのも自由だけれど、いずれは老後をむかえる人間として、句の連想に異議をとなえる人は少ないだろう。そんなところかも知れないな、というわけだ。しかし、この句を「老後」の人が読んだとしたら、どう思うだろうか。かつて詩人の天野忠が七十代のころ、老人でもない人間が、たとえ自分のことにせよ、「老後」や「老人」などと気安く言うでないと書いていたことを思いだす。「ぬるま湯につかったような老人言説」に、まぎれもない老人として、おだやかな筆致ながら猛反発していた怒りが忘れられない。『櫻山』(1974)所収。(清水哲男)


May 3051999

 こわれてもあてにしている扇風機

                           南部さやか

学校五年生の作品。扇風機が必要な真夏というよりも、これから必要になる初夏の句と読んだほうが面白い。たぶん、この扇風機は、昨年の夏の終わり頃にこわれてしまったのだ。すぐに修理に出しても、来年の夏までは使わないのだからということで、まだそのままにしてある。そのうちにと思っているうちに、早いものでだんだんと再び必要な季節が近づいてきた。家族の間では、もうそろそろ修理に出さないと間に合わないという思いはあるのだけれど、一方で、電源を入れて叩いたりすれば、またいつもの夏と同じように勢いよく回転しだすような気もしている。すなわち、なんとなく「あてにしている」のだ。作者は素直に、そんな家族の気持ちを代弁している。鋭くも可笑しい着眼だ。家電製品の故障については、しばしばこうした気持ちになる。その昔、鳴らなくなったラジオを叩いてみたら鳴りだしたという経験は、多くの方がお持ちだろう。ところが最近では、画面がフリーズするとパソコンを叩く人がいる。パソコンが家電製品になってきた証拠である。『第二十七回・全国学生俳句大会入賞作品集』(1997)所載。(清水哲男)


May 3151999

 親切な心であればさつき散る

                           波多野爽波

っぱり、わからない。わからないけれど、しかし、なぜか心に残る句だ。俳句には、こういう作品がときたまある。心にひっかかる理由の一つは「親切な心」という詠み出しにあるのではないか。芭蕉以来三百有余年の俳句の歴史のなかで「親切」などという言葉で切り出した句は、他にないのではないか。しかも、何度読んでも、この「親切な心」の持ち主は不明である。でも、つまらない句とは思えない。なんだか、散る「さつき」に似合っている気がしてくるのだ。わからないと言えば、だいたいが「さつき(杜鵑花)」自体もよくわからない花なのであって、私には「さつき」と「つつじ」の違いは、いつまで経ってもこんがらがったままである。この句については、永田耕衣の文章がある。「軽妙だが永遠に重味づくユーモアがある。滑稽といい切った方が俳句精神を顕彰するであろう活機に富む。活機といってもどこまでも控え目で出さばらぬばかりか、何のテライもない。いわば嵩ばらぬリズムの日常性がいっぱいだ。軽味も重味もヘッタクレもない。融通無碍、イナそれさえもない日常茶飯の情動だろう」。うーむ、わかるようで、わからない。もとより俳句は、わからなければいけない文学ではないのであるが……。『湯呑』(1981)所収。(清水哲男)




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