昨夜は鈴木志郎康さんの映画を見に新宿。出演の女性たちとも語りあえて楽しかった。




1999ソスN5ソスソス3ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 0351999

 憲法記念日何はあれけふうららなり

                           林 翔

の気分が、今日ではまずは一般的だろう。「憲法記念日」というよりも、ゴールデン・ウイークにリンクした休日としての位置づけだ。かまびすしい憲法論議などはさておいて、「何は(とも)あれ」上天気であることに気分が傾いている。正直な句だ。昔から探してはいるのだが、憲法記念日の句に、これというものが見当たらない。新憲法が施行されたのは、戦後二年目(1947)の今日五月三日。画期的な戦争放棄の条文を持つ新しい憲法は、当時の多くの人々に歓迎された。たとえアメリカからのお仕着せ憲法ではあっても、「何はあれ」戦争との縁切り状は敗戦国民の気持ちと合致した。その喜びを詠んだ句がいくつかあってもよさそうなのに、なかなか見い出せないできた。なぜだろうか。急にできた祝日なので、季節感を伴うには歳月が必要だったからかもしれない。「憲法」という固いイメージが、俳句に溶け込めなかったのかもしれない。季語としては、字余りで長すぎることもあったろう。しかし、どこかの誰かが一句くらいは、当時の沸き立つような心の内を詠んでいるはずである。これからも、探しつづけたい。(清水哲男)


May 0251999

 朝顔を蒔くべきところ猫通る

                           藤田湘子

顔は、八十八夜の頃に蒔くのがよいとされる。作者はたぶん、今日蒔こうか、明日にしようかと決めかねている状態にあるのだろう。蒔くのならばあのあたりかなと、庭の片隅に目をやると、そこを野良猫が呑気な顔でノソノソと通り過ぎていったというのである。たったこれだけのことであるが、このようなシーンを書きとめることのできる俳句という詩型は、つくづく面白いものだと思わざるを得ない。この句は鋭い観察眼の所産でもなければ、何か特別なメッセージを含んでいるわけでもない。しかし、なんとなくわかるような気がするし、なんとなく滑稽な味わいもある。この「なんとなく」をきちんと定着させるのが、俳人の腕である。初心者にも作れそうに見えて、しかし容易には作れないのが、この種の句だ。たとえば、種を蒔いたところを猫が通ったのならば、素人にも作れる。それなりのわかりやすいドラマがあるからだ。が、このように何も言わないで、しかも自分の味を出すことの難しさ。百戦練磨の俳人にして、はじめて可能な句境と言えよう。最近の私は、こうした句に憧れている。『一個』(1984)所収。(清水哲男)


May 0151999

 落葉松の空の濡れをり聖五月

                           古賀まり子

やかな五月の到来だ。……おっと、イケない。「爽やか」は秋の季語だから、俳句愛好者たるものは「清々しい」とでも言い換えなければなるまい。同様の理由から、甲子園球児のプレーを「爽やか」と言うのは間違いだと、さる「ホトトギス」系の俳人が新聞で怒り狂っていたのを読んだことがある。不自由ですねえ、俳人は(笑)。さて、掲句はまことに清々しくも上品な詠みぶりだ。雨上がりか、あるいは霧がかかっているのか。落葉松林の空を仰ぐと、大気はしっとりと濡れており、そこに一条の朝の光がさしこんでいるという光景だろう。たしかに「聖五月」という言葉にふさわしい「聖性」が感じられる。ところで、この「聖五月」という言い方は、阿波野青畝に「聖母の名負ひて五月は来たりけり」とあるように、元来はカトリックの「聖母月」に発している。「マリア月」とも言う。だから、いまでももちろん「聖母」に崇敬の念をこめた句も詠まれてはいるが、おおかたの俳人は掲句のように、宗教とは無縁の感覚で「聖五月」を使っている。それこそ「清々しさ」から来る日本的な「聖性」を表現している。西洋語を換骨奪胎して、別の輝きを与えた季語の成功例の一つだろう。(清水哲男)




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