セ・リーグ三試合中止。東京も雨。野球くらいは自然に逆らわないほうがいいですね。




1999ソスN5ソスソス4ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 0451999

 遠つ世へゆきたし睡し藤の昼

                           中村苑子

棚の前に立つと、幻惑される。まして暖かい昼間だと、ぼおっとしてくる。おそらくは、煙るような薄紫の花色のせいもあるのだろう。桐の花にも、同じような眩暈を覚えたことがある。「遠つ世」とは、あの世のこと。よく冗談に「死にたくなるほど眠い」と言ったりするけれど、句の場合はそうではない。あえて言えば「眠りたくなるほど自然に死に近づいている」気分が述べられている。この句は、作者自身が1996年に編んだ『白鳥の歌』(ふらんす堂)に載っている。表題からして死を間近に意識した句集の趣きで、読んでいるとキリキリと胸が痛む。と同時に、だんだん死が親しく感じられてもくる。つづいて後書きを読んだら、さながら掲句の自註のような部分があった。「……最近見えるものが見えなくなったのに、いままで見たいと思っても見えなかったもの、聞きたいと思っても聞こえなかったもろもろのものが、はっきり見えたり聞こえたりするようになったので、少々、心に決することがあり、この集を、みずからへおくる挽歌として編むことにした」と。決して愉快な句ではないが、何度も読み返しているうちに、ひとりでに「これでよし」と思えてきて、おだやかな気分になる。(清水哲男)


May 0351999

 憲法記念日何はあれけふうららなり

                           林 翔

の気分が、今日ではまずは一般的だろう。「憲法記念日」というよりも、ゴールデン・ウイークにリンクした休日としての位置づけだ。かまびすしい憲法論議などはさておいて、「何は(とも)あれ」上天気であることに気分が傾いている。正直な句だ。昔から探してはいるのだが、憲法記念日の句に、これというものが見当たらない。新憲法が施行されたのは、戦後二年目(1947)の今日五月三日。画期的な戦争放棄の条文を持つ新しい憲法は、当時の多くの人々に歓迎された。たとえアメリカからのお仕着せ憲法ではあっても、「何はあれ」戦争との縁切り状は敗戦国民の気持ちと合致した。その喜びを詠んだ句がいくつかあってもよさそうなのに、なかなか見い出せないできた。なぜだろうか。急にできた祝日なので、季節感を伴うには歳月が必要だったからかもしれない。「憲法」という固いイメージが、俳句に溶け込めなかったのかもしれない。季語としては、字余りで長すぎることもあったろう。しかし、どこかの誰かが一句くらいは、当時の沸き立つような心の内を詠んでいるはずである。これからも、探しつづけたい。(清水哲男)


May 0251999

 朝顔を蒔くべきところ猫通る

                           藤田湘子

顔は、八十八夜の頃に蒔くのがよいとされる。作者はたぶん、今日蒔こうか、明日にしようかと決めかねている状態にあるのだろう。蒔くのならばあのあたりかなと、庭の片隅に目をやると、そこを野良猫が呑気な顔でノソノソと通り過ぎていったというのである。たったこれだけのことであるが、このようなシーンを書きとめることのできる俳句という詩型は、つくづく面白いものだと思わざるを得ない。この句は鋭い観察眼の所産でもなければ、何か特別なメッセージを含んでいるわけでもない。しかし、なんとなくわかるような気がするし、なんとなく滑稽な味わいもある。この「なんとなく」をきちんと定着させるのが、俳人の腕である。初心者にも作れそうに見えて、しかし容易には作れないのが、この種の句だ。たとえば、種を蒔いたところを猫が通ったのならば、素人にも作れる。それなりのわかりやすいドラマがあるからだ。が、このように何も言わないで、しかも自分の味を出すことの難しさ。百戦練磨の俳人にして、はじめて可能な句境と言えよう。最近の私は、こうした句に憧れている。『一個』(1984)所収。(清水哲男)




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