誤爆。人殺しが「間違った、ごめん」とは笑わせる。「正爆」なら殺してもいいのか。




1999ソスN5ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 0951999

 そら豆剥き終らば母に別れ告げむ

                           吉野義子

さしぶりに実家に戻っている娘が、老いた母のもとを去りがたく思っている。もう少し母と一緒にいたいと思いながらも、そろそろ出発しなければ、列車の時間に間に合わない。母の夕餉のためのこの蚕豆(そらまめ)をむき終わったら、帰ることにしようと心に決めている。どこか、短歌的な世界を思わせる(字余りの技巧)情感溢れる作品だ。それはそれとして、父と子との場合は、こういうふうにはならない。「じゃ、また……」などと、そっけなく息子は帰っていく。淡白なものだ。そこへいくと、母と娘の情愛の濃さは、私など男にとっては不思議に思えるほどである。ひさしぶりの邂逅にも、すぐに口喧嘩をはじめたかと思えば、次の瞬間にはけろりと笑い合ったりしている。まことに母娘の関係は測りがたしと、我が家の女性たちを見ていても、つくづくと思ってきた。そんな関係のなかで、娘は一心に蚕豆をむいている。さみどり色の大粒の蚕豆を台所に残して、娘はまた彼女の実生活に戻っていくのだ。束の間としか思えなかった母親との時間。別れた後に、この蚕豆のきれいな色彩が、娘より母への万感の感情を手渡してくれるだろう。(清水哲男)


May 0851999

 ビヤホール椅子の背中をぶつけ合ひ

                           深見けん二

夏よりも、初夏のビヤホールのほうが楽しい。咽喉が乾く真夏はビールに飢えるという感覚があって、どうしても飲み方がガサツになってしまう。そこへいくと、初夏のうちは乾きにも余裕があるので、楽しむという飲み方ができるからだ。椅子の背中がぶつかりあっても、それすらが嬉しいという感じ……。句のビヤホールがどこかは知らないが、椅子がぶつかるからといって、小さな店とは限らない。銀座の「ライオン」などは大きな店だけれど、テーブルをばらまいたように配置しているので、しょっちゅうぶつかる。愛する店の一つだ。いちばん好きだったのは、まだ二十代の頃、お茶の水は文化学院のそばにあったビヤガーデンだった。文字通り、庭で飲ませてくれた。いまどきのカフェテラスとやらのように埃だらけになることもなく、新緑に染まりながら飲むビールの味は、我が青春の味そのものであった。勤め先の出版社が駿河台下だったので、仲間とよく出かけて行ったっけ。いつの間にか、つぶれてしまったのは寂しい。こんなことを書いているとキリがなくなる。が、もう一つ。この季節に意外にもよい雰囲気なのは、有楽町駅近くの「ニュー・トーキョー」だ。なかなか窓際には坐れないが、明るいうちに飲んでいると、街路樹の緑も程よく、道行く人もそれぞれ格好良く、しばし陶然となる(はずである)。『花鳥来』(1991)所収。(清水哲男)


May 0751999

 山葵田に醤油どころの御一行

                           武田夕子

ふふっと、思わずも。現代風談林派的一句とでも言うべきか。故・林家三平ならば「どこが面白いのかと言うと……」と、得意満面でやるところだ。でも、刺身や鮨を知らない外国人には、解説しても可笑しさは伝わらないだろう。醤油どころというのだから、たとえば千葉県野田市あたりの観光客御一行(ごいっこう)が、信州の山葵田(わさびだ)を訪れたというわけだ。これに漁業組合の団体でも合流したら、立派な刺身になる(笑)。ただし、こういう句は一瞬面白いのだが、すぐに飽きてしまうのも事実だ。その点では、一度しか使えない小咄のネタに似ている。山葵といえば、最近「山葵ビール」なるものを飲んだ。正確に言えば「山葵エキス入り発砲酒」。岩手の某酒造が売り出したこの珍奇な飲み物は、山葵の香が口いっぱいに広がって、最初の一杯はなかなかに美味い。期待した山葵の辛味は抜いてある。が、それこそ一瞬は美味いのだが、二杯目からは逆にエキスの香が鼻についてきて、極端に味が落ちる感じだった。これまた、現代風談林派的発砲酒というところか。話題性は十分だが、永続性となると難しい。「朝日俳壇」(朝日新聞・1999年5月2日付 [金子兜太選] )所載。(清水哲男)




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