「真須美被告、にやり」と新聞。「にこり」と同じかもしれないのに、言葉はこわい。




1999ソスN5ソスソス14ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 1451999

 神田川祭の中をながれけり

                           久保田万太郎

面から見て、有名な神田明神の祭礼かと思いきや、浅草榊神社(私は場所も知りません)の夏祭を詠んだ句だという。となれば、そんなに大きな規模の祭ではないだろう。浅草神社の三社祭のように観光客が押し寄せる荒祭でもなく、小さな町内の人々がお互いに精一杯祭を盛り上げるなか、神田川はいつものように静かに流れているという情景。つつましい暮らしのなかの手作りの祭の味わいが、じわりと読者の胸に、川面に写る祭提灯の影のように染み込んでくる。井の頭に源を発する神田川(神田川上水)は、いかにも都会の川らしく、流れる場所や季節によって複雑に表情を入れ替える。そんな神田川の一面を、万太郎が鮮やかに切り取ってみせた句だ。ちなみに、句の季題は「祭」で夏だけれど、古くは単に「祭」というと、ちょうどこの時期に行われる京都の「葵祭」だけを意味していた。古典を読む際には、こんな知識も必要だ。でも、そんな馬鹿なことを、誰が決めたのか。もとより、千年の都が勝手に決めたのである。昔の都は、とてもエラかったから。『草の丈』所収。(清水哲男)


May 1351999

 蝶低し葵の花の低ければ

                           富安風生

といえば、普通は「立葵(たちあおい)」のことを言う。句も、立葵を詠んでいる。成長すると人の背丈ほどになり、花色は白、赤、ピンクなど多様で、茎の下のほうから咲き上るのが特長。そんな葵の生態を詠んだ句で、すなわち花に来る「蝶低し」だから、いまだ葵の花が下の方に咲いている初夏の候と知れるのである。「なるほどねえ」と、読者を感心させる理詰めの句だ。浪花節の「ナニがナニしてナンとやら……」にも似ており、俳諧的にもとても面白い。詩は発見が命だから、この技法による句は富安風生の詩の命である。この句が出た後に、「なるほどねえ」と思った何人もの俳人が、同工異曲の句を書いているけれど、いずれもいただけない。他人の命に、いくら接近してみても、ついに命は共有不可能だからだ。風生には、一見のんびりとした境地の句が多く見られるが、その技法においては、すこぶる鋭意な発見と冒険に満ちている。誰か、富安風生の生涯斬新でありつづけた技法について、腰を入れた文章を書いてくれないものか。『草の花』所収。(清水哲男)


May 1251999

 蟻地獄松風を聞くばかりなり

                           高野素十

ある昆虫の名前のなかで、いちばん不気味なのが「蟻地獄」だろう。地上を這わせると後退りするので、別名「あとずさり」とも言う。こちらは、愛嬌がある。要するに、ウスバカゲロウのちっぽけな幼虫のことだ。一見して、薄汚い奴だ。命名の由来は、縁の下や松原などの乾いた砂の中に擂り鉢状の穴を掘り、滑り落ちる蟻などを捕らえて食べるところから来ている。蟻の様子を観察したことのある人なら、ごく普通に「蟻地獄」の罠も見ているはずだ。句は、そんな蟻地獄が、はるか上空を吹き過ぎる松風の音を聞いているというところだが、これまた不気味な光景と言うしかない。乾いた蟻地獄の罠と、乾いた松風と……。完全に人間世界とは無縁のところで、飢えた幼虫がじいっと砂漠を行くような風の音を聞いているという想像は秀逸にして、恐ろしい。素十はしばしば瑣末的描写を批判された俳人だが、この句は瑣末どころか、実に巨大な天地の間の虚無を訴えている。徹底した写生による句作りの果てでは、ときに人間が消えてしまう。したがって、こんなに荒涼たる光景も出現してくる。『初鴉』所収。(清水哲男)




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