百合の花をいただく。芳香。花に無関心の子供時代、なぜか山百合だけは好きだった。




1999ソスN5ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 1851999

 五月雨や人語り行く夜の辻

                           籾山庭後

月雨(さみだれ)は旧暦五月の雨だから、梅雨と同義と読んでよいだろう。そぼ降る小雨のなかの夜の辻を、何やら語り合いながら行く人ふたり。それぞれの灰色の唐傘の表情が、ふたりの関係を示しているようだ。だが、もとより作者の関心は話の中身にあるのではなく、情景そのものが持つ抒情性に向けられている。さっとスケッチしているだけだが、情緒纏綿たる味わいがある。籾山庭後は、子規を知り、虚子を知り、永井荷風の友人だった出版人。この句は大正五年(1916)二月に自分の手で出版した『江戸庵句集』に収められている。なぜ、そんなに古い句集を、私が読めたのか。友人で荷風についての著書も多い松本哉君が、さきごろ古書店で入手し、コピーを製本して送ってくれたからだ。「本文の用紙、平綴じの針金ともに真っ赤に酸化していて崩壊寸前」の本が、八千五百円もしたという。深謝。いろいろな意味で面白い本だが、まずは荷風の長文の序文が読ませる。この句など数句を引いた後に、こう書いている。「君が吟詠の哀調はこれ全く技巧に因るものにあらずして君が人格より生じ来りしものなるが故に余の君を俳諧師として崇拝するの念更に一層の深きを加へずんばあらず」。(清水哲男)


May 1751999

 日輪を送りて月の牡丹かな

                           渡辺水巴

の王者と呼ばれる豊麗な牡丹の花は、蕪村の有名な「牡丹散りて打かさなりぬ二三片」をはじめ、多くの俳人が好んで題材にしてきた。巧拙を問わなければ、俳句ではもう何万句(いや、何十万句かもしれない)も詠まれているだろう。いまやどんな牡丹の句を作っても、類句がどこかにあるというほどのものである。すなわち、作者にとって、なかなかオリジナリティを発揮できないのが、牡丹の句だ。この花を詠んで他句に抜きん出るのは至難の業だろう。原石鼎のように「牡丹の句百句作れば死ぬもよし」とまで言った人がいる。とても、百句など作れそうもないからだ。だから、誰もが抜きんでるための苦心の工夫をほどこしてきた。で、水巴の句は見事に抜きん出ている一例ではあるが、しかも名句と言うにもやぶさかではないけれど、なんだかあまりにも技巧的で、逆に落ち着かない感じもする。「月の牡丹」とはたしかに意表を突いており、日本画を見るような趣きもあり、テクニック的には抜群の巧みさだ。しかし、悲しいかな、巧いだけが俳句じゃない。「日」と「月」と大きく張って、しかし、この句のスケールのなんという小ささだろうか。言葉をあやつることの難しさ。もって小詩人の自戒ともしたいところだが、しかし、やはり図抜けた名句ではありますぞ。『水巴句集』所収。(清水哲男)


May 1651999

 生きてゐるしるしに新茶おくるとか

                           高浜虚子

争中(1943)の句。句集では、この句の前に「簡単に新茶おくると便りかな」が置かれている。簡単な便りというのだから、短い文面だ。虚子が読んだのは葉書だろうか。当時の葉書は紙質も粗悪で、現在のそれよりも一回り小型だった記憶がある。簡単の上にも簡単に書かざるを得ない。「新茶」を送る理由は、ただ「生きてゐるしるし」とのみ。今の世にこの句を置いてみると、なんだかトボけた味わいの作にも読めるが、戦時中なのだから、そんなに呑気な気分では詠まれてはいない。「生きてゐるしるし」の意味が、まったく違うからだ。今だと「ご無沙汰失礼。齢はとったけど何とかやっています」くらいの意味になろうが、当時だと「戦火激しき折りながら、幸運にも生き延びています」ということになる。作者はその短い文面をくりかえして読み、「こんな時節に、無理をして新茶など送ってくれなくてもよいのに」と、贈り主の厚情に謝している。したがって「おくるとか」の「とか」は、「送ってくるとか何とか、そのようなことが書いてある」の「とか」ではあるけれど、そんな平板な用語法を感性的に越えている。感謝の念が、かえってはっきり物を言うことをためらわせているのである。『六百句』(1946)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます