G黷ェフ子句

May 2151999

 顔よせて鹿の子ほのかにあたたかし

                           三橋鷹女

語は「鹿の子(かのこ)」で、夏。単に「鹿」と言えば、秋の季題となる。親鹿の後について歩く鹿の子があまりに可愛らしいので、思わず顔を寄せると、ほのかにあたたかい体温を感じた。女性ならではの優しい心情だ。まず、おおかたの男はこういうことをしない。いや、できない。「頬よせて」ではなく「顔よせて」に注目。「顔をよせる」のだから、目はしっかりと鹿の子をとらえている。そしておそらくは、物怖じしない鹿の子の目も、作者を見つめ返しているのだろう。この交感のありようが、なおさらに女性を感じさせるのだ。この句に「母性を感じる」人もいると思うが、私などには「母性」よりも「女性」性に満ちた作品と写る。小さいころから、女性には自然にこういうことをする「性(さが)」が備わっていると思っている。やたらと「カワイイッ」を連発する女性には辟易させられるが、それもまた、こうした行為に自然につながっていく「性」のなせるところなのかもしれない。1936年の作。『向日葵』所収。(清水哲男)


June 1562006

 憂き人を突つつきてゐる鹿の子かな

                           藤田湘子

語は「鹿の子(かのこ・しかのこ)」で夏。鹿は、四月中旬から六月中旬に子を産む。親鹿のあとについて、甘えるように歩いている子鹿は可愛らしい。「憂き人」とは、他ならぬ作者のことだろう。鬱々とした心には、寄ってくる可愛い子鹿も邪魔っけに思えるばかりだが、そんな人間の心理などにはおかまいなく、ふざけて何度も突っつきにくる。そぶりで「あっちに行け」とやってみても、なおも子鹿は突っつくことを止めないのだ。そんな子鹿の無垢なふるまいには、とうてい勝てっこない。すっかり持て余しているうちに、ふっとどこからか可笑しさが込み上げてきた。といって鬱の心が晴れたわけではないのだけれど、いま自分の置かれている状態を、客観的に見るゆとりくらいは生まれたということか。自分のことを「憂き人」と少し突き放して詠んでいるのは、そんな理由によるのだと思う。鹿の子に限らず、人間の子でも、まだ顔色をうかがうことを知らない年齢だと、よく同じようなふるまいをする。無垢は無敵だからして、始末に困る。中学生のとき、三歳の女の子があまりに悪ふざけを仕掛けてくるので本気で喧嘩をしてしまい、大いに反省したことがある。以後は、そのような事態になりかかると、三十六計を決め込むことにしているが、「憂き人」にはそうした身軽さはないであろうから、いささか腹立たしく思いながらも、ただぼんやりと突っ立っているしかないのであろう。そんな人間と無垢な鹿の子との様子を、少し離れた場所からとらえてみたら、ちょっと面白い光景が見えてきたというわけだ。遺句集『てんてん』(2006)所収。(清水哲男)




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