遠野では、ツツジ、フジ、シャクヤクが満開。期待していた桐の花は、まだチラホラ。




1999ソスN5ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2451999

 大阪も梅田の地下の冷しそば

                           有馬朗人

だ文部大臣ではなかった1991年の句。句集だけを開いても、とにかく国内外の旅の多い人だ。外国に取材した俳句も数多い。が、北欧だとかイスラエルだとかと私の未知の土地での作品は、そういうものかと思うだけで、よくはわからない。「神学者西瓜の種を吐きあひて」(イスラエル七句のうち)。そんななかで、掲句のような世界に出会うとホッとする。よくわかる。梅田近辺には大きなホテルがいくつかあるから、たぶん作者はそこに宿泊したのだ。公務での出張だろう。東京行きの新幹線を利用するには、梅田の駅(大阪駅)から新大阪駅まで電車に乗る必要がある。しかし、新幹線の発車時刻までには少々時間があるので、あらかじめ腹拵えをしておこうと、広い梅田の地下街のとある店で「冷しそば」を注文したというのである。「冷しそば」は大阪名物でも何でもなく、とりあえずすぐに出てくるものを、そそくさと食べるというだけのこと。「大阪も」と大きく振り出して、ありふれた「冷しそば」に行き着き、作者は半ば苦笑している。出張のあわただしい気分を、食べ物を通じてとらえてみせたところが面白い。『立志』(1998)所収。(清水哲男)


May 2351999

 わが夏帽どこまで転べども故郷

                           寺山修司

賞ならぬ感傷。中学から高校時代にかけて、偶然の契機から見知った才能を忘れられない二人は、ともに故人となった。一人は漫画の小野寺章太郎(後の石ノ森章太郎)であり、もう一人は俳句の寺山修司であった。小野寺章太郎は「漫画少年」「毎日中学生新聞」で、寺山修司は「螢雪時代」の投稿欄で作品と名前を知った。私も投稿していて、二人には、いつも負けていた。思い返してみると、小野寺も寺山も、才能は秀抜だったとしても、ともに寂しい少年であったような印象がある。田舎の子ゆえの寂しさが、だからこその都会的センスへの渇望が、作品を紡ぎだすバネになっていたのだと思う。戦後間もなくの(純白の)「夏帽」だなんて、映画のなかの誰かがかぶっていたかどうかくらいのもので、句作した当人も目撃したことはなかったろう。そのあたりの田舎者ならではの「憧れのいじらしさ」が、修司の句には散見される。そして、この「いじらしさ」は、我ら全国の投稿少年たちの心情にも共通していた。修司を評して「アンファン・テリブル」と言った人もいるけれど、そうだったろうか。田舎の子が、何事かをなさんと欲するならば、そんなポーズを取るしかなかったということでしかないだろう。私がこの句を好きなのは、そんなポーズが隠しようもなく露われていて、とても「いじらしい」からである。俳誌「麦」(1954年9月号)に初出。(清水哲男)


May 2251999

 泣けとこそ北上河原の蕗は長けぬ

                           岸田稚魚

木歌集『一握の砂』に「やはらかに柳あをめる北上の岸邊目に見ゆ泣けとごとくに」(原文は三行の分かち書き)がある。作者は、もとよりこの歌を百も承知で作っている。「柳」に対して「蕗」を持ってきた。このとき、稚魚は六十代半ば。若さ溢れる啄木短歌を向こうにまわして「泣けとこそ」と詠んだ作者の心根は、どんなものだったろうか。啄木の見ている北上川はあくまでも明るいが、稚魚の立っている北上河原は、曇り空の下にあるようだ。そこから「柳」も目には入るのだけれど、もっと下方にびっしりと生えている「蕗」のほうに自然と心を奪われている。成長した蕗は、暗緑色だ。たとえ陽射しがあったとしても、柳のように陽気な色ではない。ただし、暗い色をしているからといって、その色彩やたたずまいが心に染みいらないというわけではない。啄木のような若者にはわからなかったのか、あるいはわかろうとしなかったのか。ならば、ずばりと私(作者)が北上の魅力を言い当ててみせようというのが、稚魚の気概であったろう。私にも、少しはこういうことがわかるようになってきたようだ。悲しくもなし、かといって嬉しくもなし。『花盗人』(1986)所収。(清水哲男)




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