武蔵丸が使者への挨拶を間違えた。このように相撲社会の見栄も内部から壊れていく。




1999ソスN5ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2751999

 いとけなく植田となりてなびきをり

                           橋本多佳子

植えが終わって間もない田。植えられた早苗はまだか細くも薄緑色で、鏡のような水田を渡る五月の風に、いささか頼りなげになびいている。しばらくすると、これら「いとけなき」ものたちも成長して、見事な青田に変わっていくわけだ。さながら人間の赤ん坊を見ているような思いから、多佳子は「いとけなく」と詠んでおり、一見平凡な形容とも受け取れるが、生きとし生けるものへの愛情こまやかな優れた表現だと思う。青年期以降、私の周辺には水田がなく、田圃のなかで育った人間としては、寂しい思いをしてきた。たまさかの旅で、車窓から田圃が見えると、反射的にいつも目が行く。田圃で働く人の姿がちらと見えると、目に焼きつく。先日の遠野の旅では、実にひさしぶりに植田を間近に見ることができて、観光用の名所や建物などよりも、よほど目の保養になった。立ち止っては、写真に撮ることもした。こんな旅の者もいるのである。我が山陰の田舎でも、田植えが終わったころだ。終わると、大人たちは「泥落とし」と称し、集まって一杯やっていたことを思いだす。(清水哲男)


May 2651999

 よぼよぼの虻を看とらぬ地球哉

                           永田耕衣

さなものと大きなものとを対比させたり衝突させたりして、そこにポエジーを発生させる技法は、詩一般にとって親しいものだ。それにしても、虻(あぶ)と地球とはケタ外れの大きさの違いである。しかも、死に瀕している虻とまだまだ盛んに命を燃やしている地球の、二者の勢いの差も甚だしい。だが、不思議なことに、この句の虻は地球よりもむしろ大きく見えている。いきなり「よぼよぼの虻」とクローズアップしているためでもあるが、考えてみて、私たちは地球を虻を見るようには見たことがないせいだと思った。つまり、ここで虻は限りなく具象的な物体であり、地球は限りなく抽象的なそれである。そこで、句の眼目は小さなものと大きなものとの対比だけではなくて、具体と抽象との対比にもずれ込んでいく。さらに作者は、地球という抽象的物体に「看とらぬ」という人間的な意志を持たせた。これで、ぐんと地球が小さく写る仕掛けだ。もちろん、作者はこのように順番を踏んで書いたのではなく、あくまでも一気呵成に詠んでいるわけだが、無粋に分析すると、こういうことだろう。この仕掛けのために、世界は少しも暗くない。「これでよし」と、すっきりとした明るいニヒリズムが感じ取れる。『殺佛』(1978)所収。(清水哲男)


May 2551999

 心いま萍を見てゐるにあらず

                           清崎敏郎

という漢字を知らなくても、じいっと眺めているうちに、その実体が姿を現わしてくる。平らな水の上(水面)に草が浮いている。すなわち「うきくさ」だ。「苹」とも書く。漢和辞典によると、はじめは上の艸がなく、後に加えて字義を明確にした文字だそうだ。だから、音読みでは「へい」となる。こうやって覚えると二度と忘れないが、皮肉なことにたいていの人が読めないので、覚えがいはない。今は「浮草」と書くのが一般的だろう。句は、作者二十代の作。一読、老成した感覚を感じるが、よく読むと、若さゆえの抽象性が滲み出ている。池の畔にたたずみ、我が目はたしかに萍をとらえているけれど、心は遠く別の場所にある。自省か煩悶か、あるいは何事かについての思索なのか。ともあれ、いまの我が姿から他人が想像できるような場所に、俺の心は存在してはいないのだ。と、この決然とした物言いも、若さの生み出した表現と言えるだろう。作者は虚子の流れをくみ、花鳥諷詠に徹した人だが、その意味からすると異色の作である。さきごろ(1999年5月12日)鬼籍の人となられた。合掌。『安房上総』(1964)所収。(清水哲男)




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