ガン告知を受けた先輩を見舞う。顔色のよさに驚いたが、「日に一度は滅入るよ」と。




1999ソスN5ソスソス31ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 3151999

 親切な心であればさつき散る

                           波多野爽波

っぱり、わからない。わからないけれど、しかし、なぜか心に残る句だ。俳句には、こういう作品がときたまある。心にひっかかる理由の一つは「親切な心」という詠み出しにあるのではないか。芭蕉以来三百有余年の俳句の歴史のなかで「親切」などという言葉で切り出した句は、他にないのではないか。しかも、何度読んでも、この「親切な心」の持ち主は不明である。でも、つまらない句とは思えない。なんだか、散る「さつき」に似合っている気がしてくるのだ。わからないと言えば、だいたいが「さつき(杜鵑花)」自体もよくわからない花なのであって、私には「さつき」と「つつじ」の違いは、いつまで経ってもこんがらがったままである。この句については、永田耕衣の文章がある。「軽妙だが永遠に重味づくユーモアがある。滑稽といい切った方が俳句精神を顕彰するであろう活機に富む。活機といってもどこまでも控え目で出さばらぬばかりか、何のテライもない。いわば嵩ばらぬリズムの日常性がいっぱいだ。軽味も重味もヘッタクレもない。融通無碍、イナそれさえもない日常茶飯の情動だろう」。うーむ、わかるようで、わからない。もとより俳句は、わからなければいけない文学ではないのであるが……。『湯呑』(1981)所収。(清水哲男)


May 3051999

 こわれてもあてにしている扇風機

                           南部さやか

学校五年生の作品。扇風機が必要な真夏というよりも、これから必要になる初夏の句と読んだほうが面白い。たぶん、この扇風機は、昨年の夏の終わり頃にこわれてしまったのだ。すぐに修理に出しても、来年の夏までは使わないのだからということで、まだそのままにしてある。そのうちにと思っているうちに、早いものでだんだんと再び必要な季節が近づいてきた。家族の間では、もうそろそろ修理に出さないと間に合わないという思いはあるのだけれど、一方で、電源を入れて叩いたりすれば、またいつもの夏と同じように勢いよく回転しだすような気もしている。すなわち、なんとなく「あてにしている」のだ。作者は素直に、そんな家族の気持ちを代弁している。鋭くも可笑しい着眼だ。家電製品の故障については、しばしばこうした気持ちになる。その昔、鳴らなくなったラジオを叩いてみたら鳴りだしたという経験は、多くの方がお持ちだろう。ところが最近では、画面がフリーズするとパソコンを叩く人がいる。パソコンが家電製品になってきた証拠である。『第二十七回・全国学生俳句大会入賞作品集』(1997)所載。(清水哲男)


May 2951999

 休日は老後に似たり砂糖水

                           草間時彦

だ「老後」というにはほど遠い、作者四十代後半の句。だから「老後に似たり」なのであるが、休日が老後に似ているのは、ふと思いついて砂糖水を飲んでみたりする心持ちが、老後の所在なさを連想させたからだろう。今日「砂糖水」と言っても若い人には通じないけれど、なんのことはない、砂糖を水に溶かしただけの飲み物だ。砂糖が貴重だった時代、氷水にして客などにふるまったことから「砂糖水」は立派に夏の季語の仲間入りを遂げている。でも、どことなく頼りないのが砂糖水の味だ。それが休日のように時間だけはあっても、なんだか薄味でつまらなそうな「老後」のありようとして、作者の視野には写っている。もとより、自分の「老後」のイメージは人さまざまであり、どんなふうに想像するのも自由だけれど、いずれは老後をむかえる人間として、句の連想に異議をとなえる人は少ないだろう。そんなところかも知れないな、というわけだ。しかし、この句を「老後」の人が読んだとしたら、どう思うだろうか。かつて詩人の天野忠が七十代のころ、老人でもない人間が、たとえ自分のことにせよ、「老後」や「老人」などと気安く言うでないと書いていたことを思いだす。「ぬるま湯につかったような老人言説」に、まぎれもない老人として、おだやかな筆致ながら猛反発していた怒りが忘れられない。『櫻山』(1974)所収。(清水哲男)




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