June 041999
君地獄へわれ極楽へ青あらし
高山れおな
高山れおな(本名)は、本年度「スウェーデン賞」(宮城県中新田町の賞)の受賞俳人。男性。句の漢字と平仮名の字配りを見てもわかるように(「青嵐」ではなく「青あらし」と平仮名にこだわるところ)、なかなかに言語感覚に優れた人だと思う。いわゆるセンスがいいのだ。句の中身を「いい気なものだ」と思ったら、間違いである。「地獄」行きであれ「極楽」行きであれ、どうせ死んだら同じことだと、作者はすがすがしい青嵐のなかで感じているだけのことなのだから……。「地獄」と「極楽」に分かれるということは、現世でしか一緒にいられないという思いを強くしていることでもある。君を「地獄」行きと言っているのは、自分を「地獄」行きと規定したら「詩」にならないとわかっているからだ。本当は、どっちだっていいのだけれど、作者はみずからの「詩」の発現のためにだけ、こう詠んでいる。この人の俳句としては、必ずしも良い出来ではないかもしれない。が、私はこの飛び上がり方が、今後の俳句界にはよい影響をもたらすような気がしている。『ウルトラ』(1998)所収。(清水哲男)
June 031999
はたらいてもう昼が来て薄暑かな
能村登四郎
よほど体調がよいのだろう。仕事に集中できているから、あっという間に時間が経ってしまう。ふと空腹を覚えて時計を見ると、もう昼時である。表の陽光には、既に夏に近いまぶしさが感じられる。心身ともに心地好い充実感で満たされた一句だ。しかし同日の同じ職場にも、一方では「まだ昼か」と、時間の経過を遅く感じている人もいただろう。人それぞれの時間感覚は、それこそそれぞれに違っていて面白い。たとえば、妙に就寝時刻にこだわる人もいる。日付が同じ日のうちに床につくと、何だかとても損をしたような気になる人は結構多い。たとえ5分でも10分でも明日まで起きていないと、気がすまないのである。でも、他人のことは笑えない。私の場合は、表の明るさにこだわる性質(たち)だからだ。表が明るくなっても寝ているのは、とても損な気がしてならない。だから、夏場になると、どんどん早起きになる。昼寝も、なるべくしないようにする。理由は考えたこともないのだけれど、ひょっとすると代々受け継いできた農民の血のせいなのかもしれぬ。と、時々そう思ったりする。『人間頌歌』(ふらんす堂文庫・1990)所収。(清水哲男)
June 021999
万緑に黄に横に竹四つ目垣
上野 泰
視覚的に面白い句。「黄に横に竹四つ目垣」の、それぞれの漢字をよく見てみると、ほとんどが縦横に垂直な線で構成されていて、なるほどいかにも「四つ目垣」である。さしたる発見もない句だけれど、なんとなく可笑しい。句の背後で、きっと作者もほくそ笑んでいることだろう。気取って読むと、モンドリアンの絵画にも通じる構成の妙ありとでも言いたくはなるが、ま、この読み方はいささか牽強付会に過ぎる。とりあえず、こういう俳句も「あり」ということだ。昨今はブロック塀の進出が著しく、四つ目垣も昔のようには見られなくなった。そもそも家庭の垣根という発想やオブジェが都会の産物であり、他の産物と同様に、垣根もまた都会の文法の変化とともに変わっていく。ちかごろの都会の自治体では、町に「緑を取り戻す」ために、ブロック塀から四つ目垣などに作り替える家には助成金を出すところも出てきた。しかし、こうした助成金は作り替えるときの費用の一部になるだけなのであって、その後の垣根の手入れなどについてまで面倒を見ようとはしていない。これでは、簡便なブロック塀に勝てるわけがない。「黄に横に竹四つ目垣」の景観を再現したいのならば、この他にも考えるべき点は山ほどある。『佐介』(1950)所収。(清水哲男)
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