鴉が鳴いている。三鷹での鳴き声は田舎の鴉とは違う。せっかち。野蛮にして粗暴。




1999ソスN6ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 0761999

 水ゆれて鳳凰堂へ蛇の首

                           阿波野青畝

語は「蛇」で夏。鳳凰堂は宇治平等院の有名な伽藍である。十円玉の裏にも刻んであるので、見たことがない読者はそちらを参照してください。前池をはさんで鳳凰堂を眺めていた作者の目に、突然水のゆれる様子がうつった。目をこらすと、伽藍に向かって泳いでいく蛇の首が見えたというのである。この句の良さは、まずは出来事を伏せておいて「水」と「鳳凰堂」から伽藍の優雅なたたずまいを読者に連想させ、後に「蛇の首」と意外性を盛り込んだところにある。たとえ作者と同じ情景を見たとしても、なかなかこのように堂々たる鳳凰堂の姿を残しながら、出来事を詠むことは難しい。無技巧と見えて、実はとても技巧的な作品なのだ。同じ「水」と「鳳凰堂」の句に「水馬鳳凰堂をゆるがせる」(飴山實)がある。前池に写った鳳凰堂の影を、盛んに水馬(あめんぼう)がゆるがせている。こちらは明らかに技巧的な作品だが、少しく理に落ちていて、「蛇の首」ほどのインパクトは感じられない。『春の鳶』(1951)所収。(清水哲男)


June 0661999

 衣紋竹片側さがる宿酔

                           川崎展宏

飲みならば、膝を打つ句。ただし、現在ただいま宿酔(二日酔い)中の人が読むと、ますます気分の悪くなる句だ。衣紋竹(えもんだけ)は竹製のハンガーで、昔はどの家にも吊るされていた。涼しげなので夏の季語としてきたが、今では収録していない歳時記もある。現物が、ほとんど見られなくなったからだろう。深酒から目覚めて、ずきずきする頭のまま室内を見るともなく見回していると、傾いた衣紋竹に目が留まった。乱雑に、半分ずり落ちそうに、自分の衣服が掛けてある。そこに昨夜の狼藉ぶりが印されているようで、作者は後悔の念にとらわれているのだ。あんなに調子に乗って飲むんじゃなかった、そんなに楽しくもなかったのに……。もとより、私にも何度も覚えがある。ところで、二日酔いを何故「宿酔」と表現するのだろうか。「宿」の第一義は「泊る」であり、「泊る」とはずうっとそこに留まることだ。そこで、二日酔いは前日の酔いが留まっていることから「宿酔」。つまり、自分の身体が酒の宿屋状態になっている(笑、いや苦笑)わけだ。「宿題」や「宿敵」の「宿」と同じ用法である。『義仲』(1978)所収。(清水哲男)


June 0561999

 ジーンズに腰骨入るる薄暑かな

                           恩田侑布子

手いなア。洗いたてか、新調か。ごわごわしたジーンズを穿くときには、たしかにこんな感じになる。ウエスト・ボタンをかけるときの、あのキュッと腰骨を締め上げる感覚が、これから夏めいてきた戸外に出ていく気分とよくマッチしていて、軽快な句に仕上がっている。極めて良質な青春句だ。ジーンズといえば、私は一年中ジーンズで通している。親しかった人の葬儀にも、ジーンズで出かける。これだと、黒づくめの集団に埋没することなく、故人がすぐに私を識別できると思うからだ。変わっていると言われるけれど、急に真っ黒なカラスに変態する人のほうが、よほど変わっている。こんな具合で、室内着兼外出着兼礼服兼……と、三十代からずっとそうしてきた。会社勤めのころには、いっぱしにスーツやネクタイに凝ったこともあったけれど、一度ジーンズの魅力に取りつかれてしまうと、ネクタイ趣味など金がかかるだけで愚劣に思えてくるのだった。作者の場合のジーンズは気分転換のためだが、私の場合は、気分の平衡感覚を崩さないためである。スヌーピーの漫画に出てくる「ライナスの毛布」のようなものかもしれない。ということは、精神的に幼いのかなア。(清水哲男)




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