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1999ソスN6ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 0961999

 夜の蟻迷へるものは弧を描く

                           中村草田男

の畳の上に、どこからか迷いこんできた蟻。電灯の光の下で、おのれが置かれた異環境から逃れようと、半狂乱の様子で歩き回っている。見ていると、蟻はまさに歩き回っているだけなのであって、同じ弧を描くばかりだ。その円弧から少し外れれば、簡単に脱出できるのに……。思えば人間もまた、迷いはじめるとこの蟻のように、必死に同じところをぐるぐる回りつづけるだけなのだろう。まことに格調高く、句は「迷へるもの」の真髄を言い当てている。説教でもなく自嘲でもなく、作者は冷静に自己納得している。そして、もとより作者は、この蟻を殺さなかっただろう。数多い草田男句のなかでも、屈指の名句だ。わずかに十七文字の世界で、これだけの大容量の世界を表出できる俳人は、そうザラにいるものではない。以下、余談。この句にそってではなかったが、このような趣旨のことを、ある新聞に書いたことがある。ご覧になった作者のお嬢さんが、そのコラムを切り抜いて仏壇に上げてくださったと仄聞した。決して、自慢しているのではない。草田男の仕事の偉大を思う一人の読者として、涙が出るほどに嬉しかったので、どこかに書きつけておきたかっただけ。『来し方行方』(1957)所収。(清水哲男)


June 0861999

 休むとは流れることねあめんぼう

                           黒田早苗

語でなければ表現できない俳句世界はあるだろうか。最近、口語俳句について考える機会があって、口語俳句にこだわっている人々の俳句や五七五にさえなっていれば後は自由という作品などを、まとめて読んでみた。はっきり言って、なかなかよい句は見当たらなかった。なぜ、口語なのか。多くの句が、そのあたりのことを漫然とやり過ごしているように思えたからである。俳句のような短い詩型にあって、たとえば文語である「切れ字」を使用しないで物を言う口語は、かえって口語を不自由に窮屈にしているようだ。そんななかで、掲句は例外的と言ってもよいほどに、口語ならではの世界の現出に成功している。同じ心持ちを文語的に詠めないことはない。古来関西では「あめんぼう(水馬)」を「みづすまし」と呼ぶから、「休むとは流るることよみづすまし」などと……。でも、これでは「人間、サボッていると時代に流されてしまうぞ」という教訓句になってしまう。掲句の作者は、そんなことは露ほども思っていない。見たまま、感じたままを「あめんぼう」に呼びかけることで、伸び伸びとした「俳味」に通じる世界を出現させている。作者の年齢は二十五歳とあった。『自由語り』(第七回伊藤園「おーいお茶」新俳句大賞入選作品集・1996)所載。(清水哲男)


June 0761999

 水ゆれて鳳凰堂へ蛇の首

                           阿波野青畝

語は「蛇」で夏。鳳凰堂は宇治平等院の有名な伽藍である。十円玉の裏にも刻んであるので、見たことがない読者はそちらを参照してください。前池をはさんで鳳凰堂を眺めていた作者の目に、突然水のゆれる様子がうつった。目をこらすと、伽藍に向かって泳いでいく蛇の首が見えたというのである。この句の良さは、まずは出来事を伏せておいて「水」と「鳳凰堂」から伽藍の優雅なたたずまいを読者に連想させ、後に「蛇の首」と意外性を盛り込んだところにある。たとえ作者と同じ情景を見たとしても、なかなかこのように堂々たる鳳凰堂の姿を残しながら、出来事を詠むことは難しい。無技巧と見えて、実はとても技巧的な作品なのだ。同じ「水」と「鳳凰堂」の句に「水馬鳳凰堂をゆるがせる」(飴山實)がある。前池に写った鳳凰堂の影を、盛んに水馬(あめんぼう)がゆるがせている。こちらは明らかに技巧的な作品だが、少しく理に落ちていて、「蛇の首」ほどのインパクトは感じられない。『春の鳶』(1951)所収。(清水哲男)




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