サルトル『存在と無』(人文書院)新装版二分冊。上巻が7600円もする。ひえーっ。




1999ソスN6ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 2061999

 ラムネ玉河へ気づかぬほどの雨

                           北野平八

光地でか、それとも吟行先でか。いずれにしても、大の大人がラムネの壜を手にするのは、日常的な時間のなかでではないだろう。どんよりと曇った蒸し暑い昼下がり。休憩所か食事処かで、ちょっとした茶目っ気に懐しさも手伝って、作者はひさしぶりに飲んでみた。子供の頃の、遠い日の味がよみがえってくる。眼前を悠々と流れる河面を、ラムネ玉を鳴らしながら見るともなしに見ているうちに、ふと細かい雨が降りだしたのに気がついた。よく目をこらさないと「気づかぬほどの雨」である。事実、同行者の誰もがまだ気づいていないようだ。みな、賑やかに笑い合ったりしている。べつに細かい雨などどうということもないのだが、このように人はふと、ひとり意識が交流の場からずれることがある。その淡くはかない哀歓の訪れた束の間の時間を、作者はのがさなかった。北野平八得意の芸である。「ラムネ」という名称の由来は、レモネードからの転訛(てんか)説が有力だ。最近はプラスチック製の瓶が出回っているようだが、あれはやはりガラス壜でないと感じが出ない。『北野平八句集』(1987)所収。(清水哲男)


June 1961999

 川ばかり闇はながれて蛍かな

                           加賀千代女

代女は、元禄から安永へと18世紀の七十三年間を生きた俳人。加賀国松任(現・石川県石川郡松任町)の生まれだったので、通称を「加賀千代女」という。美人の誉れ高く、何人もの男がそのことを書き残している。若年時の「朝顔に釣瓶とられてもらひ水」の心優しさで世に知られ、しきりに喧伝もされた。二百余年後に生まれた私までもが、ついでに学校で教えられた。さて、句の川は何処の川かは知らねども、往時の普通の川端などは真の闇に包まれていたであろう。川面で乱舞する蛍の明滅が水の面をわずかに照らし、かすかなせせらぎの音もして、そのあたりは「川ばかり」という具合だ。このときに、しかし川の流れは、周辺の闇と同一の闇がそこだけ不思議に流れているとも思えてくる。闇のなかを流れる闇。現代詩人がこう書いたとすれば、それは想像上のイメージでしかないのだけれど、千代女の場合はまったき実感である。その実感を、このように表現しえた才能が凄い。繰り返し舌頭に転がしているだけで、句は私たちの心を江戸時代の闇の川辺に誘ってくれるかのようである。寂しくも豊饒な江戸期の真の闇が、現代人の複雑ながらも痩せ細った心の闇の内に、すうっと流れ込んでくるようである。『千代尼句集』所収。(清水哲男)


June 1861999

 鮎は影と走りて若きことやめず

                           鎌倉佐弓

京地方での鮎釣りの解禁日は秋川流域が先週の日曜日、多摩川も間もなくだ。好きな人は解禁日を待ち兼ねて、夜も眠れないほどに興奮するというから凄い。子供の遠足前夜以上。私は素早い動きの魚は苦手なので、一度も鮎を目掛けて釣ったことはない。どろーんとした鮒釣りが、子供の頃から性にあっていた。それはともかく、掲句は鮎の動きをとてもよくとらえていて素敵だ。たしかに「影」と一緒に走っている。しかも単なる写生にとどまらず、「若きことやめず」と素早く追い討ちをかけたところが見事。若さは、影にも現われる。人間でも、化粧もできない影にこそ現われる。しかも、鮎は「年魚」とも言われるように、その一生は短い。だからこそ、今の若さが鮮やかなのだ。句には、佐藤紘彰の英訳がある。俳誌「吟遊」(代表・夏石番矢)の第二号に載っている。すなわち"A sweetfish runs with its shadow ever to be young"と。以下、私見。……間違いではないんですけどねエ、なんだかちょっと違うんですよねエ。第一に、鮎が露骨に単数なのが困る。"sweetfish"が"carp"のように単複同一表記なのは承知しているが、ここはやっぱり"Sweetfish"と出て、一瞬単複いずれかと読者を迷わせたほうがベターなのではないかしらん。『潤』(1984)所収。(清水哲男)




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