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1999N622句(前日までの二句を含む)

June 2261999

 高窓や紅粛々と夏至の暁け

                           赤城さかえ

至は、北半球で昼間が最も長い日。昔、その理屈も教室で習った。太陽が夏至点に達し、天球上最も北に片寄るので云々と。当ページを書いていて思うことの一つに、学校ではずいぶんと色々なことを、過剰なほどに習ったということがある。ただし、習った記憶だけはあるのだが、習った中身をずいぶんと忘れてしまっているのが、とても残念だ。夏至の理屈も、私にはその一つ。夏至がめぐってくるたびに、理屈を本で調べ直す始末である。大枝先生、ごめんなさい。でも、調べる年はまだよいほうで、たいていの年には「夏至」なんぞ忘れている。ラジオの仕事に関わっているので、局に行ってからはじめて「夏至」と知ることも多い。そこへいくと、さすがに俳人の季節に対する意識は強烈だ。句のように、夜が暁け(あけ)てくるときには、既に「夏至」を意識しているのだから……。皮肉ではなくて、できれば私も、これからは「粛々と」(これも皮肉ではない)この作者のようにありたいと願う。暦の上で、「夏至」は夏の真ん中だ。せっかく生まれてきたのだから、ジャイアンツの誰かさんのように、ど真ん中の直球をぼおっと見送って三振したくはない。(清水哲男)


June 2161999

 青山椒雨には少し酒ほしき

                           星野麥丘人

れようが降ろうが、年中酒を欲する人の句ではないだろう。私は年中欲するが、ビールに限るのであって、日本酒は一年に一度飲むかどうかくらい(それも義理で)のところだ。友人に不思議がられるが、相手が日本酒になると下戸同然ということである。同様に、焼酎もウィスキーも飲まない。いや、飲めない。そんな私だが、この句を読んだ途端に日本酒を飲みたくなった。作者と同様に、少しだけだけれど……。雨の庭の青山椒(あおさんしょう)は美しい。が、この句は夕餉の食卓に、青山椒の佃煮か何かが出された故の発想ではなかろうか。晩酌の習慣のない作者が、思わずも日本酒を飲みたくなったのは、たぶん急な梅雨寒のなかで、少し身体を温めたいと思っていたからに違いない。そこに、青山椒の佃煮か何かが出てきた。夜の表は、なお降り続いている雨である。作者の連想は、昼間の雨の庭の美しい青山椒の姿へと自然につながっていく。そこで文字通り情緒的に、一杯ほしくなったというところだろう。うっとおしい梅雨時の情緒は、かくありたいものだ。ぽっと、心の暖まる一句。(清水哲男)


June 2061999

 ラムネ玉河へ気づかぬほどの雨

                           北野平八

光地でか、それとも吟行先でか。いずれにしても、大の大人がラムネの壜を手にするのは、日常的な時間のなかでではないだろう。どんよりと曇った蒸し暑い昼下がり。休憩所か食事処かで、ちょっとした茶目っ気に懐しさも手伝って、作者はひさしぶりに飲んでみた。子供の頃の、遠い日の味がよみがえってくる。眼前を悠々と流れる河面を、ラムネ玉を鳴らしながら見るともなしに見ているうちに、ふと細かい雨が降りだしたのに気がついた。よく目をこらさないと「気づかぬほどの雨」である。事実、同行者の誰もがまだ気づいていないようだ。みな、賑やかに笑い合ったりしている。べつに細かい雨などどうということもないのだが、このように人はふと、ひとり意識が交流の場からずれることがある。その淡くはかない哀歓の訪れた束の間の時間を、作者はのがさなかった。北野平八得意の芸である。「ラムネ」という名称の由来は、レモネードからの転訛(てんか)説が有力だ。最近はプラスチック製の瓶が出回っているようだが、あれはやはりガラス壜でないと感じが出ない。『北野平八句集』(1987)所収。(清水哲男)




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