郵便局でCD-ROM「はがき作成・お役立ち素材集」を無料配付中。入手したが、バツ。




1999ソスN6ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 2461999

 茄子もぐは楽しからずや余所の妻

                           星野立子

子の父親である虚子の解説がある。「郊外近い道を散歩しておる時分に、ふと見ると其処の畠に人妻らしい人が茄子をもいでおる。それを見た時の作者の感じをいったものである。あんな風に茄子をもいでおる。如何に楽しいことであろうか、一家の主婦として後圃(こうほ)の茄子をもぐということに、妻としての安心、誇り、というものがある、とそう感じたのである。そう叙した事に由ってその細君の茄子をもいで居るさまも想像される」(俳誌「玉藻」1954年一月号)。その通りであるが、その通りでしかない。どこか、物足りない。作者がわざわざ「余所(よそ)の妻」と強調した意味合いを、虚子が見過ごしているからだと思う。作者は、たまたま見かけた女性の姿に、同性として妻として鋭く反応したのである。おそらくは一生、彼女は俳句などという文芸にとらわれることなく生きていくに違いない。そういう人生も、またよきかな。私も彼女と同じように生きる道を選択することも、できないことではなかったのに……。という、ちょっとした心のゆらめき。戦争も末期の1944年の句とあらば、なおさらに運命の異なる「余所の妻」に注目しなければならないだろう。『笹目』(1950)所収。(清水哲男)


June 2361999

 梅雨晴や野球知らねばラヂオ消す

                           及川 貞

だドーム球場がなかったころ、梅雨時の野球ファンは大変だった。観に行く予定のある場合はもちろんだが、試合が予定されている各地の天候が気になって、それこそラジオの天気予報に一喜一憂したものである。予報で雨と告げられても、往時の天気予報は当たらないことが多かったので、試合をやっているのではないかと、その時間には念のためにラジオのスイッチを入れるのが常だった。句の作者は、まったく逆の立場である。番組表では野球中継が予定されており、梅雨の晴れ間でもあるけれど、ひょっとしたら野球は中止されていて、いつもの好きな番組が放送されているのではないかとラジオをつけてみた。でも、やっぱり野球をやっている。あちこちダイヤルを回してみても、どこもみな野球放送ばかりだ。がっかりして、消してしまった……。あるいは、それほどでもなくて、なんとなくラジオを聞きたくなっただけなのかもしれないが、いずれにしても、梅雨晴をめぐっての小さなドラマがここにある。ベテランのスポーツ記者のなかには、けっこう梅雨好きという人がいたりする。雨になると、昔は必ず仕事が休みになったからだ。(清水哲男)


June 2261999

 高窓や紅粛々と夏至の暁け

                           赤城さかえ

至は、北半球で昼間が最も長い日。昔、その理屈も教室で習った。太陽が夏至点に達し、天球上最も北に片寄るので云々と。当ページを書いていて思うことの一つに、学校ではずいぶんと色々なことを、過剰なほどに習ったということがある。ただし、習った記憶だけはあるのだが、習った中身をずいぶんと忘れてしまっているのが、とても残念だ。夏至の理屈も、私にはその一つ。夏至がめぐってくるたびに、理屈を本で調べ直す始末である。大枝先生、ごめんなさい。でも、調べる年はまだよいほうで、たいていの年には「夏至」なんぞ忘れている。ラジオの仕事に関わっているので、局に行ってからはじめて「夏至」と知ることも多い。そこへいくと、さすがに俳人の季節に対する意識は強烈だ。句のように、夜が暁け(あけ)てくるときには、既に「夏至」を意識しているのだから……。皮肉ではなくて、できれば私も、これからは「粛々と」(これも皮肉ではない)この作者のようにありたいと願う。暦の上で、「夏至」は夏の真ん中だ。せっかく生まれてきたのだから、ジャイアンツの誰かさんのように、ど真ん中の直球をぼおっと見送って三振したくはない。(清水哲男)




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