日曜の朝に体調がよいと結局は遊んでしまう。「サザエさん」が始まる頃に後悔する。




1999ソスN6ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 2761999

 瓜の種噛みあてたりし世の暗さ

                           成田千空

は瓜といえば「胡瓜(キュウリ)」をさしたそうだが、今では瓜類の総称とする。「トウナス」も「ヘチマ」も瓜である。作者は現代の人だから、この場合は「マクワウリ」だろう。種をちゃんとよけて食べたつもりが、噛みあててしまった。その不愉快な気持ちが、「そう言えば」と世の中の暗さに行きあたっている。最近はロクなことがない、イヤな世の中だと独白したのかもしれない。ところで、作者の言う「世」とは、何をどのようにさしているのだろうか。普通に読んで「世の中」や「世間」、あるいは「社会」と受け取れるのだが、それはそれとして「世」ほどに厄介な概念も少ないなと、いつも思う。例えば私が「世」と言うときに、私の指示する「世」と相手が受けとめる「世」の概念とは、必ずしも符合するとは限らないからだ。「世」のひろがりを自然に世界情勢に結びつける人もいれば、ひどく狭い範囲でとらえる人もいる。お互いに「暗いね」とうなずきあっても、本当はうなずきあったことにはならない。滑稽ではあるが、こういうことは「世の中」でしょっちゅう起きている。ま、「世の中」とはそうしたものかも……。(清水哲男)


June 2661999

 モナリザに仮死いつまでも金亀子

                           西東三鬼

亀子(こがねむし)は、別名を「ぶんぶん」「ぶんぶん虫」などとも言う。金亀子は体色からの、別名はやたらにうるさい羽音からの命名だ。故郷の山口では、両者を折衷して「かなぶん」と呼んでいた。この虫は、燈火をめがけて、いきなり部屋に飛び込んでくる。で、電灯か何かに衝突すると、ぽたりと落ちて、今度は急に死んだふりをする。まことに、せわしない虫だ。作者の目の前には見事に死んだふりの金亀子と、部屋の壁ではモナリザが永遠の謎の微笑を浮かべている。さあて、この取り合わせは実にいい勝負だなと、腕組みをして眺めながら、作者は苦笑している。ところで、生きていくための死んだふりとは、奥深くも謎めいた自然の智恵だと思う。金亀子の天敵は何なのだろうか。そういえば「コガネムシハ、カネモチダ。カネクラタテタ、クラタテタ……」という童謡があった。人間の金持ちも「喧嘩せず」などとうそぶきながら、しばしば死んだふりをする。こちらの天敵が、国税庁国税局の「マルサ」であることは言うまでもあるまい。(清水哲男)


June 2561999

 古日傘われからひとを捨てしかな

                           稲垣きくの

立てに、いつの間にか使わなくなった日傘が立ててある。気に入っていたので、処分する気にならぬままでいたのだが、もう相当に古びてしまった。普段はさして気にもならないのだけれど、日傘の季節になると、かつての恋愛劇を思い出してしまう。あのときは、きっぱりと私の方から別れたのだ。捨てたのだと……。その人のことを懐しむというのではなく、若き日の自分の気性の激しさに、あらためて感じ入っているというところだ。たしかに我がことには違いないが、どこか他人事のような気もしてくる。「捨てしかな」という感慨に、帰らぬ青春を想う気持ちも込められている。松浦為王に「日傘開く音はつきりと別れ哉」があり、こちらは未練を残しつつも捨てられた側の句だ。あのときの「パチン」という音が、いまだに耳に残っている。二人の作者はもとより無関係だが、並べてみると、なかなかに切ない。日傘一本にも、ドラマは染みつく。女性の身の回りには小物も多いので、この種のドラマを秘めた「物」の一つや二つは、処分できないままに、さりげなくその辺に置いてあるのだろう。下衆(げす)のかんぐりである。(清水哲男)




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