誘拐した少女と未明の町を歩いていた男。同情はしないが、妙に切ない男心は感じる。




1999ソスN7ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 0271999

 緑蔭や人の時計をのぞき去る

                           高浜虚子

園のよく茂った緑の樹々。その蔭のベンチで憩う作者の手元に、いきなりぬうっと顔を近づけて去っていった男がいる。瞬間、作者は男が腕時計をのぞきこんだのだな、と知る。無遠慮な奴めと不愉快な気持ちもなくはないが、一方ではなんとなく男の気持ちもわかるような気がして憎めない。緑蔭にしばしの涼を求めていた彼は、きっと時間にしばられた約束事でもあったのだろう。シーンは違え、誰にでも覚えのありそうな出来事だが、見過ごさず俳句に仕立ててしまった虚子は、やはり凄い。「全身俳人」とでも言うべきか。安住敦に「緑蔭にして乞はれたる煙草の火」があり、これまた「いかにも」とうなずけるけれど、いささか付き過ぎで面白みは薄い。最近は時計もライターも普及しているので、このような場面に遭遇することも少なくなった。公園などで時間を聞いてくるのは、たいていが小学生だ。塾に行く時間を気にしながら遊んでいるのだろう。いまどきの子供はみんな、とても忙しいのである。(清水哲男)


July 0171999

 薔薇を転がる露一滴の告白なり

                           原子公平

白の中身は問わないにしても、一点の曇りも虚飾もない告白。人に、そういうことが可能だろうか。可能だとすれば、それはこのように小さくて瑞々しく清らかだろう。かくの如き告白ありき、というのではなく、作者はあらまほしき告白の姿をかくの如く詠んだのだろう。ただし、この読み方は作者の意図を半分しかとらえていないと思われる。何故か。モチーフは薔薇の花を転がる露だから、作者は花に近く顔を寄せている。束の間、露一滴の美しさに陶然とした。それが告白という人の秘密の吐露に結びついたわけだが、この事情をよく考えてみると、作品の示すベクトルは、実は「告白」に向かってはいないことがわかってくる。あえて言えば、句の「告白」は薔薇の露一滴の甘美な美しさを演出するための小道具なのであって、句全体は「告白」に反射する光を結局は薔薇の露一滴に集めているのだ。すなわち、巡り巡っての薔薇賛歌と読むのが妥当だろう。俳句様式ならではの仕掛けの妙を、私としては以上のように感じたのだが、どんなものだろうか。『海は恋人』(1987)所収。(清水哲男)


June 3061999

 還暦を過ぎし勤めや茄子汁

                           前川富士子

者本人が、還暦を過ぎているわけではないだろう。そんな気がする。自分を詠んだとすると、素材が付き過ぎていて面白くない。夫か、父親か。作者は、今日も、その人のための朝餉を用意している。この季節になると、いつも当たり前のように茄子汁(なすびじる)を出してきた。出された人は黙々と食べ、いつもの時刻に今朝もまた出勤していく。何十年も変わらぬ夏場の茄子汁であり朝の情景であるが、黙々と食べて出勤していく人は、いつしか還暦を過ぎてしまった。変わらない食卓と、変わらないようでいて変わっていく人のありよう……。そこにさりげない視点を当てた、鋭い句だ。還暦を過ぎた私の日常も、半分は勤め人みたいなものだから、句を読んでドキリとさせられるものがあった。若いつもりではいても、このように見ている人にかかっては、当方の内心など何も関係はないのだ。だから「ご苦労さま」でもないし「そろそろ退職を考えては……」でもない、実にクールなところを評価したい。ここでベタベタしてしまっては、いつもと変わらぬせっかくの「茄子汁」の味が落ちてしまう。(清水哲男)




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