十三回忌に多数の参列者。雄の匂いがしなかった裕次郎。人気の秘密はそこにある。




1999ソスN7ソスソス4ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 0471999

 わたくしに劣るものなく梅雨きのこ

                           池田澄子

初は、作者の純粋な自嘲の句かと思った。でも、誰にもかえりみられない陰湿な梅雨時の茸(きのこ)の独白と読んだほうが面白い。つまり、茸がつぶやいているのだ。もちろん、そこには作者自身の自嘲が投影されているわけだけれど、不思議に暗くないところが不思議(笑)な作品だ。なぜだろうと、ほとんど一日中考えてしまった。で、結論は「わたくし」という主語にあると落ち着いた。「私」でもなく「あたし」でもなく、「わたくし」とは自らを四角四面に尊重するニュアンスを含んだ言葉だから、正直に「劣るものなく」と自己卑下をしていても、主語のまっとうさが発語者の印象を救うのである。映画の寅さんが「わたくし、生まれも育ちも柴又です」とやる、アレに共通する感覚だと思う。句での茸は寅さんの仲間なのだと思うと、とても楽しい。梅雨茸を、こんなふうに不思議な雰囲気に仕立て上げた作者に拍手をおくりたい。ああ、この句をぜひとも「梅雨きのこ」に読ませてやりたいものだ。何と言うだろうか。やはり「わたくし……」と、慇懃(いんぎん)に切り出してくるのでしょうね。『空の庭』(1988)所収。(清水哲男)


July 0371999

 一と股ぎほどの野川の芹の花

                           田村いづみ

(せり)というと春の季語だが、花は夏。水辺で、白くこまかい花を咲かせる。立ち止って観賞するほどの派手さもないけれど、歩きながら目の端にとらえて、束の間すずやかな印象を受ける花だ。句の情景は、まさに我が故郷山陰の野川のそれだと思った。学校の行き帰りに必ず渡る細い川があって、大人ならば「一と股ぎ」のところを、子供のために割り木が二本渡してあった。まるで、文部省唱歌「春の小川」のモデルのような川だった。毎夏、その水辺にひっそりと芹の花があった。芹摘みの記憶は、あまりない。川にはもっとお腹のふくれる「ていらぎ」(方言だと思います。正式な名をご存じの方、教えてください)が群生しており、腹の足しにもならない芹などには、さして関心がなかったせいだろう。したがって、放置されたままの芹は、この季節になるといっせいに花をつけた。子供心にも、ぼんやりと寂しい花のように写っていた。花の記憶は、場所に結び付く。だから、あまりにも違う場所で咲いている花を見ると、なんだか偽物のように感じられるほどだ。その意味からも、この句は私のなかの芹の花にぴしゃりとフィットしてくれた。(清水哲男)


July 0271999

 緑蔭や人の時計をのぞき去る

                           高浜虚子

園のよく茂った緑の樹々。その蔭のベンチで憩う作者の手元に、いきなりぬうっと顔を近づけて去っていった男がいる。瞬間、作者は男が腕時計をのぞきこんだのだな、と知る。無遠慮な奴めと不愉快な気持ちもなくはないが、一方ではなんとなく男の気持ちもわかるような気がして憎めない。緑蔭にしばしの涼を求めていた彼は、きっと時間にしばられた約束事でもあったのだろう。シーンは違え、誰にでも覚えのありそうな出来事だが、見過ごさず俳句に仕立ててしまった虚子は、やはり凄い。「全身俳人」とでも言うべきか。安住敦に「緑蔭にして乞はれたる煙草の火」があり、これまた「いかにも」とうなずけるけれど、いささか付き過ぎで面白みは薄い。最近は時計もライターも普及しているので、このような場面に遭遇することも少なくなった。公園などで時間を聞いてくるのは、たいていが小学生だ。塾に行く時間を気にしながら遊んでいるのだろう。いまどきの子供はみんな、とても忙しいのである。(清水哲男)




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