国歌国旗の定義など聞きたかぁない。せめて法制化がナンボのもんかを聞かせたれや。




1999ソスN7ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 0571999

 花南瓜素顔にあればなつかしき

                           小山 遥

生時代、同級生の女性から「着ている服の色に、その日の気分が左右される」と聞かされて、いたく感心したことがあった。なにせ当方は、小学生以降どこに行くにも黒い学生服を着ていたので、迂闊にもそういうことには気がつかなかったのである。お恥ずかしくも馬鹿な話だ。女性の場合は、この服のとっかえひっかえに加えて化粧ということがあるから、物の見え方も男とはずいぶん違っているのだろう。化粧のおかげで見える物もあれば、逆によく見えない物もあるのだろう。この句には、そういうことが詠まれている。たまたまの素顔のままの外出で、作者は南瓜の花を見かけた。普段のように化粧をしていたら、きっと気にもかけないで通り過ぎてしまっただろう黄色い花に気を引かれている。このときの作者は、いつだって素顔だった少女時代の気分に戻ったのだ。したがって、しみじみとした「なつかしさ」の気分にひたれたというのである。化粧、恐るべし。……とまで作者は書いてはいないけれど、学生時代と同様に、私はいたく感心している。『ひばり東風』(1998)所収。(清水哲男)


July 0471999

 わたくしに劣るものなく梅雨きのこ

                           池田澄子

初は、作者の純粋な自嘲の句かと思った。でも、誰にもかえりみられない陰湿な梅雨時の茸(きのこ)の独白と読んだほうが面白い。つまり、茸がつぶやいているのだ。もちろん、そこには作者自身の自嘲が投影されているわけだけれど、不思議に暗くないところが不思議(笑)な作品だ。なぜだろうと、ほとんど一日中考えてしまった。で、結論は「わたくし」という主語にあると落ち着いた。「私」でもなく「あたし」でもなく、「わたくし」とは自らを四角四面に尊重するニュアンスを含んだ言葉だから、正直に「劣るものなく」と自己卑下をしていても、主語のまっとうさが発語者の印象を救うのである。映画の寅さんが「わたくし、生まれも育ちも柴又です」とやる、アレに共通する感覚だと思う。句での茸は寅さんの仲間なのだと思うと、とても楽しい。梅雨茸を、こんなふうに不思議な雰囲気に仕立て上げた作者に拍手をおくりたい。ああ、この句をぜひとも「梅雨きのこ」に読ませてやりたいものだ。何と言うだろうか。やはり「わたくし……」と、慇懃(いんぎん)に切り出してくるのでしょうね。『空の庭』(1988)所収。(清水哲男)


July 0371999

 一と股ぎほどの野川の芹の花

                           田村いづみ

(せり)というと春の季語だが、花は夏。水辺で、白くこまかい花を咲かせる。立ち止って観賞するほどの派手さもないけれど、歩きながら目の端にとらえて、束の間すずやかな印象を受ける花だ。句の情景は、まさに我が故郷山陰の野川のそれだと思った。学校の行き帰りに必ず渡る細い川があって、大人ならば「一と股ぎ」のところを、子供のために割り木が二本渡してあった。まるで、文部省唱歌「春の小川」のモデルのような川だった。毎夏、その水辺にひっそりと芹の花があった。芹摘みの記憶は、あまりない。川にはもっとお腹のふくれる「ていらぎ」(方言だと思います。正式な名をご存じの方、教えてください)が群生しており、腹の足しにもならない芹などには、さして関心がなかったせいだろう。したがって、放置されたままの芹は、この季節になるといっせいに花をつけた。子供心にも、ぼんやりと寂しい花のように写っていた。花の記憶は、場所に結び付く。だから、あまりにも違う場所で咲いている花を見ると、なんだか偽物のように感じられるほどだ。その意味からも、この句は私のなかの芹の花にぴしゃりとフィットしてくれた。(清水哲男)




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