昔、栃錦は「相撲を取ったこともない奴に何が解る」と言った。その通りに人気壊滅。




1999ソスN7ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 0871999

 ゆやけ見る見えざるものと肩を組み

                           市川勇人

事な夕焼けは、今の都会でもしばしば見る機会がある。虹を見たときと同じように、そのことを急いで誰かに告げたくなる。でも、大人になってからのそんな時間には、たいていが独りぼっちの帰宅途中だったりするから、咄嗟に告げる相手がいない場合のほうが多い。作者も、やはり一人で真っ赤な夕焼けを見たのだ。独り占めにするにはもったいないほどの夕焼けだったので、その思いが高じた末に、「見えざるもの」と肩を組んでいる心持ちになった。このとき「見えざるもの」とは、子供の頃の友人の面影かもしれないし、ゲゲゲの鬼太郎のような親しみのある妖怪であったかもしれない。とにかく、独りで見たのではないと言い張ることによって、夕焼けの見事さが浮かび上がってくる。どこか、ノスタルジックな味も出ている。誰かと肩を組むことを、いつしか我々はしなくなってしまった。代わりに半世紀前まではめったにしなかった握手が日常的なふるまいとなった。肩組みと握手とでは親愛の情の表現の深浅が違うが、我々は情の深さを嫌うようになったらしい。この「我々」という言葉すら、いまや死語に近づいてきた。句はそうした「我々」の幻をも描いている。そこに、ノスタルジーの源泉があるというわけだ。「俳句界」(1999年7月号)所載。(清水哲男)


July 0771999

 七夕やまだ指折つて句をつくる

                           秋元不死男

を言うと、今日七夕の句を掲げるのには心理的な抵抗がある。本来は旧暦の七月七日(1999年では8月17日)の節句であるし、梅雨も盛りの頃とて、ろくに星空ものぞめないからだ。でも、東京あたりでは保育園や幼稚園をはじめとして、強引に今日を七夕として行っているので、こんなことで流れに逆らうのもはばかられ、しぶしぶの選句とはあいなった。句意は簡明だ。「指折つて句をつく」っているのは、日頃から俳句の心得がない人というわけで、この場合は子供だろう。七夕の当日になっても、なお短冊に書く句を作りあぐねている。少しは苛々もするが、一所懸命に指を折っている様子が可愛らしい。私が子供だった頃には、短冊に俳句などを書きつける意味を「文字の上達を祈るため」と教えられた。女の子は「裁縫の上達」のためだったらしい。そのために朝早く起き、里芋の葉にたまっている露を茶碗に集めてきて、硯(すずり)の墨をすった。戦前じゃないですよ、戦後の話ですよ。何を書いたかはすっかり忘れてしまったけれど、いっこうに字がうまくならなかったことからすると、心からの真剣な願いを書かなかったからにちがいない。どうも、私には上手に行事にノレない性格があるようだ。(清水哲男)


July 0671999

 金魚玉こっぱみじんにとり落す

                           三ケ山孝子

魚鉢は卓上に置くが、「金魚玉」は軒端などに吊り下げる。金魚にはまことに迷惑な話だけれど、見た目に涼しく、夏という季節の良さを感じさせられる。ただし、私などは見るたびに「アブナいなあ」とは思う。危うき物は美しきかな……。ほら、言わんこっちゃない。作者は、たまたま手を滑らせてとり落してしまった。まさに「こっぱみじん(木端微塵)」だ。思わずも、目をつむったにちがいない。で、誰でもが、読後すぐに思うのは、中に金魚がいたのかどうかということだろう。何も書いてないから、そのことはわからない。わからないが、やはり気になる。金魚がいたのであれば、作者は次の瞬間にどうしたろうか、と。たぶん、まず金魚を救いにかかったはずだけれど、何も書いてないからわからない。「それで、どうしたの」と、作者を知っていれば聞きたくなる。ただ、わかることは作者が金魚玉の予想以上の「こっぱみじん」ぶりに驚くと同時に、どこかで爽快感すらを覚えているようだということくらいか……。書きたかったのは、壊してしまった自責の念と同時に発生した爽快感の両側面だ。それで、いいノダ。俳句自体に「それで、どうしたの」と聞いてみても、一般的にはあまり意味がない。そのサンプルみたいな一句である。(清水哲男)




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