July 111999
草茂る産湯浴びしはこの辺り
佐伯志保
こういう句は、頭の中では作れない。実際に、その場に立ってはじめて浮かぶ発想だ。作者は「故郷の廃家」ならぬ、もはや跡形もない生家の地に立っている。草の茂るにまかせた無惨な荒れ地だ。しかし、生家の見取り図はちゃんと覚えている。ここが居間、ここらへんが台所などと懐しんでいるうちに、親からよく聞かされていた産湯の場所も見当がついた。この瞬間に、作者の心は故郷としっかり結びついたに違いない。この地、この家に住んだ者でなければわからぬ、かけがえのない感動を得ただろう。似たような体験が私にもあって、似たような感動を味わったことがある。十数年ぶりに、故郷を訪れたときのことだ。生家ではないけれど、後に移り住んだ家は既に畠になっており、畦道に腰を下ろして懐しがっているうちに、何とも言いようのない思いが自然にこみあげてきたのだった。その夜、土地の知り合いに、私たちが出ていった後の家の様子を聞いてみた。「しばらくはそのまま立っていたけれど、ある日、朽ち木が倒れるように倒れていくのを見た」と、彼は言った。(清水哲男)
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