高校野球東京予選開始。甲子園ではビールを売るのに、地方大会ではない。ムカツク。




1999ソスN7ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 1271999

 放浪や肘へ氷菓の汁垂れて

                           飴山 實

大生だった作者が、夏休みに俳句仲間と奥能登へ旅行した際の句。二十一歳(1947)。戦後二年目の旅だ。もとより、貧乏旅行だったろう。旅の気持ちを「放浪」気分と詠んで、いかにも若者らしい強がりも含めた青春像が見て取れる。「氷菓(ひょうか)」は、アイスキャンデーだと思う。当時の固くて冷たくて唇に吸い付くような棒状のアイスキャンデーは、しばらく舐めて温めないと噛み砕けなかった。しかし、温まってくると、今度はにわかに崩壊剥落するので厄介だった。したがって、もちろん肘に汁が垂れることもある。「放浪」と感じたもうひとつの根拠には、このような氷菓の「崩壊」も関与したに違いない。作者は、肘に垂れた汁を拭おうともしていない。眼前に展開するのは、夏の激しい陽光を照り返す日本海の荒波だ。若者は垂れるにまかせて、いささかヒロイックに「放浪」者として立っている。「明日の暦は知らず氷菓の紅にごる」と、敗戦後の青春はみずからの明日を設計することもかなわず、いわば昂然と鬱屈していたのである。『おりいぶ』(1959)所収。(清水哲男)


July 1171999

 草茂る産湯浴びしはこの辺り

                           佐伯志保

ういう句は、頭の中では作れない。実際に、その場に立ってはじめて浮かぶ発想だ。作者は「故郷の廃家」ならぬ、もはや跡形もない生家の地に立っている。草の茂るにまかせた無惨な荒れ地だ。しかし、生家の見取り図はちゃんと覚えている。ここが居間、ここらへんが台所などと懐しんでいるうちに、親からよく聞かされていた産湯の場所も見当がついた。この瞬間に、作者の心は故郷としっかり結びついたに違いない。この地、この家に住んだ者でなければわからぬ、かけがえのない感動を得ただろう。似たような体験が私にもあって、似たような感動を味わったことがある。十数年ぶりに、故郷を訪れたときのことだ。生家ではないけれど、後に移り住んだ家は既に畠になっており、畦道に腰を下ろして懐しがっているうちに、何とも言いようのない思いが自然にこみあげてきたのだった。その夜、土地の知り合いに、私たちが出ていった後の家の様子を聞いてみた。「しばらくはそのまま立っていたけれど、ある日、朽ち木が倒れるように倒れていくのを見た」と、彼は言った。(清水哲男)


July 1071999

 あなただあれなどと母いふ暑さかな

                           竹内 立

にかく暑い。そこへもってきて、母親が何度も「あなただあれ」などと問いかける。ますます暑苦しい。しかし、この暑さも母親のボケも、どうなるものでもない。じっと耐えるしかない。脂汗までが浮いてくるようだ。作者は七十一歳。第4回「俳句αあるふぁ」年間賞受賞作(塩田丸男選)。しっかり者だった私の祖母も、晩年はボケた。遠く離れていたこともあり、ボケてからは会うこともなかったが、やはり「あなただあれ」を連発していたという。知人の話などを総合してみても、たいていボケた人は「あなただあれ」と言うようだ。そんな話を聞くたびに、この質問の意味は何なのかと思う。文字通りに、相手の名前や正体を質しているのだろうか。それとも幼児が「これなあに」を連発するように、正確な解答を求めるというよりも、コミュニケーションそれ自体を欲する問いにしかすぎないのか。どうも後者に近いような気がするが、このとき、質問を発する人の心持ちはどうなのだろう。気軽なのか、逆に苦しいのか。そこまでは、専門家にもわかるまい。「俳句αあるふぁ」(1999年6-7月号)所載。(清水哲男)




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