今宵は神宮球場。若松の引退試合以来だから何年ぶりだろう。が、予報は雨。駄目か。




1999ソスN7ソスソス13ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 1371999

 夏草や兵どもがゆめの跡

                           松尾芭蕉

は「つわもの」。『おくのほそ道』には「奥州高館(源義経の居館だった)にて」との詞書。添えられた「三代の栄燿一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有……」云々は、すこぶるつきの名文だ。名句名文、文句無し。それはそれとして、芭蕉がこの古戦場に立ったのは、栄華を極めた藤原三代が滅亡して五百年後のことである。時間的には、現代と芭蕉の時代のほうがはるかに近い。私がわざわざここに引っ張りだしたのは、句における芭蕉の気持ちの半分以上は、実は自分のことを詠んでいるのではないのかという思いからだ。芭蕉は、武士だった。といっても生家は半分百姓で、藤堂家に仕えてからも、剣術なんかはさして必要はなかったようだ。いわば武士のはしくれでしかなかったわけだが、ひとたび古戦場に立てば、今日の私たちの感慨とは、かなりの差異があったはずである。若くして主君に先立たれた(それも自殺)芭蕉は、日常的な刃傷沙汰も知っていただろうし、五百年前の軍馬剣戟の響きに半ば本能的に反応する感覚は、十分に持ち合わせていたはずだ。血が騒いだはずだ。だから、このときの芭蕉が、「兵」に重ねて自らの喪失した「武士」を思うのは自然と言うべきだろう。このような解釈をする人にお目にかかったことはないが、私の読みはそういうことである。飛躍して、若き日の主君であった藤堂新七郎への秘めたる鎮魂歌と読んでよいとも。(清水哲男)


July 1271999

 放浪や肘へ氷菓の汁垂れて

                           飴山 實

大生だった作者が、夏休みに俳句仲間と奥能登へ旅行した際の句。二十一歳(1947)。戦後二年目の旅だ。もとより、貧乏旅行だったろう。旅の気持ちを「放浪」気分と詠んで、いかにも若者らしい強がりも含めた青春像が見て取れる。「氷菓(ひょうか)」は、アイスキャンデーだと思う。当時の固くて冷たくて唇に吸い付くような棒状のアイスキャンデーは、しばらく舐めて温めないと噛み砕けなかった。しかし、温まってくると、今度はにわかに崩壊剥落するので厄介だった。したがって、もちろん肘に汁が垂れることもある。「放浪」と感じたもうひとつの根拠には、このような氷菓の「崩壊」も関与したに違いない。作者は、肘に垂れた汁を拭おうともしていない。眼前に展開するのは、夏の激しい陽光を照り返す日本海の荒波だ。若者は垂れるにまかせて、いささかヒロイックに「放浪」者として立っている。「明日の暦は知らず氷菓の紅にごる」と、敗戦後の青春はみずからの明日を設計することもかなわず、いわば昂然と鬱屈していたのである。『おりいぶ』(1959)所収。(清水哲男)


July 1171999

 草茂る産湯浴びしはこの辺り

                           佐伯志保

ういう句は、頭の中では作れない。実際に、その場に立ってはじめて浮かぶ発想だ。作者は「故郷の廃家」ならぬ、もはや跡形もない生家の地に立っている。草の茂るにまかせた無惨な荒れ地だ。しかし、生家の見取り図はちゃんと覚えている。ここが居間、ここらへんが台所などと懐しんでいるうちに、親からよく聞かされていた産湯の場所も見当がついた。この瞬間に、作者の心は故郷としっかり結びついたに違いない。この地、この家に住んだ者でなければわからぬ、かけがえのない感動を得ただろう。似たような体験が私にもあって、似たような感動を味わったことがある。十数年ぶりに、故郷を訪れたときのことだ。生家ではないけれど、後に移り住んだ家は既に畠になっており、畦道に腰を下ろして懐しがっているうちに、何とも言いようのない思いが自然にこみあげてきたのだった。その夜、土地の知り合いに、私たちが出ていった後の家の様子を聞いてみた。「しばらくはそのまま立っていたけれど、ある日、朽ち木が倒れるように倒れていくのを見た」と、彼は言った。(清水哲男)




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