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1999ソスN7ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 2971999

 少女と駈く一丁ほどの夕立かな

                           岸田稚魚

の大気は不安定だ。晴れていたのが、一天にわかにかきくもり、ザーッと降ってくる。そんなに家が遠くないときには、作者のように、とにかく駆け出す。気がつくと、見知らぬ女の子も同じ方向にいっしょに並んで駆けている。こんなときには、お互い連帯感がわくもので、ちらりと目で合図を送るようにしながら、走っていく。このとき、作者は六十代。息も切れようというものだが、元気な女の子に引っ張られるようにして走っている自分が楽しくなっている。そんな気分が、よく出ている。数字にうるさい読者にお伝えしておけば、一丁(町とも)は六十間、一間をメートルに換算すると1.81818メートル。ということは、二人が走っているのは、およそ百メートルほどの近距離という計算だ。だが、もともとこの丁(町)という数助詞は、昔の町から隣町への距離を単位としたアバウトな数字である。したがって、一丁の意味は、ちょっとそこまでといった感覚のなかにあるものだった。句でも、同様だ。翌日からは、この二人が顔を合わせると、思わずもにっこりということになっただろう。夕立フレンドである。『萩供養』(1982)所収。(清水哲男)


July 2871999

 草のなかでわれら放送している夏

                           阿部完市

送マンのはしくれとして、目についた以上は、取り上げないわけにはいかない句だ。キーワードはもとより「放送」であるが、さて、どんな意味で使用されているのか。草っ原にマイクロフォンがあるわけもなし、通常の意味での「放送」ではないだろう。普通の意味から少し飛躍して、放電現象のようなことを指しているような気がする。すなわち、暑い夏の野原にある「われら」が、それぞれにそれぞれの思いを、無言のうちに身体から放電しているといった状態だ。主語を「われら」と束ねたのは、それぞれの思いが、お互いに語らずとも、作者には同じ方向に向いていることがわかっているからだ。が、カミュの『異邦人』ではないけれど、焼けつくような太陽のせいで、ここでの「われら」は、もしかすると幻かもしない。周囲には、誰もいないのだ。となれば、いわば「放電」と「放心」の境界で成立しているような句であるのかもしれぬ。ともあれ、暑さを暑さのままに、その最中(さなか)のぼおっとした感覚を半具象的に捉えた句として、記憶しておきたい。『にもつは絵馬』(1974)所収。(清水哲男)


July 2771999

 ありそうでついにない仲ところてん

                           小沢信男

き氷や蜜豆くらいならばまだしも、ところてん(心太)は目掛けて食べに行くようなものではない。ちょっと休憩と店に入り、たまたま品書きで見つける程度の存在感の薄い嗜好品だ。しかも「心太ひとり食うぶるものならず」(山田みづえ)とあって、確かにひとり心太を食べる図というのも似合わない。句のように、男女の場つなぎの小道具みたいなところがある。このとき「ところてん」ではなく「かき氷」や「蜜豆」では、逆に絵にならない。あくまでも少々陰気な「ところてん」がふさわしいのだ。なんとなく、二人の仲が曰くありげに見えてくるではないか。でも、目の前の相手との曰くは「ありそうでついにない」という仲。「ありそう」だったのは昔のことで、「ついにない」まま過ぎてきた。それでいいのさ、と作者は微笑している。相手の女性も、同じ気持ちだろう。いささかの恋愛感情を含んだ大人の男女の微妙な友情が、さりげなく詠まれていて心地好い。あまり美味いとは思わないが、そんな誰かと裏町のひっそりとした店で「ところてん」を食べたくなってくる。『足の裏』(1998)所収。(清水哲男)




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