燃えるゴミの日。静岡では「燃やすゴミの日」と。「燃やす」のほうがゴミに能動的。




1999ソスN8ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 0281999

 ぼんぼりの家紋違へて川床隣る

                           橋本美代子

床(ゆか)は、京都鴨川沿いや貴船のそれが有名。要するに、夏の間だけ茶屋や料亭が川の上に桟敷を突き出して作る座敷のこと。カフェテラスの川版だ。当然、川床の下には水が流れるわけで、見た目には涼しそうだが、実際はどうなのだろうか。京都に住んでいたので毎夏遠目にはしたが、そんな高級な夕涼みはしたことがなく、わからない。家紋入りのぼんぼりを立てるなどは、いかにも豪勢だ。到底、一般人の立ち入れる場所ではない。若いころには、こうした遊びに反発も覚えたけれど、最近はそうも思わなくなってきた。当然のことながら遊びも文化だから、豪勢な遊びのできる人は少ないとしても、その豪奢に引っ張られるようにして、一般人の遊びのレベルも上がってくる理屈だ。当今の料亭は汚職の取り引きの場所ともなりがちだが、その閉鎖的な空間が育ててきた極上の遊びの文化、衣食文化の功績には多大なものがありそうだ。ひたすらに遊びのためにだけ、ありたけの智恵を絞る仕事は、たとえ商売とはいえ、素晴らしいことではあるまいか。ところで、お宅の家紋は何ですか。我が家は、たしか抱茗荷(だきみょうが)だったと……。(清水哲男)


August 0181999

 柔かく女豹がふみて岩灼くる

                           富安風生

月。なお酷暑の日々がつづく。季語は「灼(や)く」で、言いえて妙。「焼く」よりも、もっと身体に刺し込んでくるような暑さが感じられる。昭和初期の新興俳句時代に、誓子や秋桜子などによってはじめられた比較的新しい季語だ。作者は動物園で着想を得たのだろうが、それを感じさせない奥行きを持つ。女豹(めひょう)のしなやかな姿態が、灼けた岩の上に、いとも楽々とある図は、どこかで現実を超えている神秘性すら感じさせる。灼けるような暑さのなかで、女豹のいる位置だけに、あたかも幻想の時が流れているようだ。同工の句に、中島斌雄の「灼くる宙に眼ひらき麒麟孤独なり」がある。こちらも動物園の世界の外を思わせはするけれど、「孤独」がいささか世界を狭くしてしまった。麒麟(きりん)を人間の「孤独」に引き寄せ過ぎている。つまり、麒麟の心を読者に解説したサービスによる失敗だ。見たままを言いっ放しにする度胸。言葉の直球を投げ込む度胸。俳句作りには、いつもこの度胸が問われている。(清水哲男)


July 3171999

 坂の上日傘沈んでゆきにけり

                           大串 章

暑の坂道。はるかに前を行く女性の日傘が、坂を登りきったところから、だんだん沈んでいくように見えはじめた。ただそれだけのことながら、真夏の白っぽい光景のなかの日傘は鮮やかである。光景の見事な抽象化だ。ところで、ここ数年の大串章の句には、切れ字の「けり」の多用が目立つ。長年の読者兼友人としては、かなり気になる。「けり」は、決着だ。巷間に「けり」をつけるという文句があるくらいで、「けり」はその場をみずからの意志によって、とにもかくにも閉じてしまうことにつながる。閉じるとは内向することであり、読者にはうかがい知れぬところに、作者ひとりが沈んでいくことだ。もとより「けり」には、連句の一句目(発句)を独立させるのに有効な武器として働いてきた歴史的な経緯があり、その意味で大串俳句はきわめてオーソドックスに俳句的な骨組みに従っているとは言える。が、社会的に連句の意識が希薄ないま、なぜ「けり」の頻発なのだろうか。句の日傘を私は女性用と読んだけれど、そんなことを詮索する必要などないと、この「けり」が告げているような気もする。坂の上で日傘が沈んだ……。それで、いいではないか、と。この光景の抽象化は、この「けり」のつけ方は、作者の人知れぬ孤独の闇を暗示しているようで、正直に言うと、私にはちょっと怖いなと思っている。新句集『天風』(1999)所収。(清水哲男)




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