広島原爆忌。すべての戦争によるすべての犠牲者の御霊に深く哀悼の意を捧げます。




1999ソスN8ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 0681999

 蝉しぐれ窓なき部屋を借りしと次子

                           古沢太穂

暑。季節が季節だけに、次子からのこの報告は、我が身にもこたえる。窓のない部屋、粗末なアパートの一室を借りたというのである。たしかに家賃は安いだろうが、いかにも不憫だ。何とかしてやろうにも、親の側も手元不如意。どうにもならない身を責めるように、蝉たちがしぐれのごとく鳴いている。単なる出来事のレポートだけれど、燃えるような夏の暑さが、よく伝わってくる。アパートといえば、外観からはうかがいしれぬ様々な部屋がある。不動産屋で調べて行ってみると、たしかに四畳半は四畳半だが、三角の部屋だったりしたこともある。窓があるにはあっても、開けると間近に隣の建物の壁しか見えない部屋も。山本有三の『路傍の石』には、アパートではないけれど、垂直の階段を上り下りする屋根裏部屋が出てくる。階段というよりも梯子だ。今だって、みんながみんな、テレビドラマに出てくるようなしゃれた部屋に居住しているわけではない。窓のない部屋の人もいるだろう。が、街に出ている人の服装や様子は、みんな同じように見える。それが「街」という空間なのだろうけれど。『火雲』(1982)所収。(清水哲男)


August 0581999

 小流れに指しびれけりお花畑

                           森田 峠

語のなかには、時々首をかしげたくなるものがある。「お花畑」もその一つで、季節は夏。単に「花畑」というと秋の季語になるから、ややこしい。「お花畑」は、夏になって高山植物がどっと花を開いた状態を指すのであって、平地の花畑ではないのだ。平井照敏氏の『新歳時記』(河出文庫版)によれば、本意は「登山が盛んになってからの季題で、「お」をつけて、その清浄美をあらわす」とある。そうかなあ。「お」一文字に、そんな力があるかなあ。と、首をかしげていても仕方がないが、このことがわかって、はじめて「小流れ」の冷たさの意味が理解できる。そういえば、もう二十年ほども前になるか。一度だけ、信州は白馬岳で「お花畑」とは露知らずに「お花畑」を見たことがある。カンカン照りだったけれど、さほど暑さも感じられず、さまざまな色に咲き揃った花々の姿は見事に美しかった。天に近い。そんな実感だった。ペンションが流行しはじめたころで、脱サラ(これまた流行)の人がやっているところで宿泊した。食堂に流れていた音楽は、クラシック。私も若かったが、世の中も十分に若かった。『避暑散歩』(1973)所収。(清水哲男)


August 0481999

 浴衣着て素肌もつとも目覚めけり

                           古賀まり子

でいるときよりも、何かを着たときのほうが肌の感覚を意識する。ぴしりと折り目のついた浴衣は、湯上がりに着ることが多いので、なおさらである。それを作者は「目覚める」と詠んだ。夜の「目覚め」だ。浴衣のルーツは知られているように、読んで字の如く、もともとは入浴のときに着たものである。蒸し風呂だったからで、湯に直接入る習慣は近世以降からと言われる。したがって表に着て出るなどはとんでもない話だったわけで、ぼつぼつ外着となってきたのは明治のころからのようだ。盆踊りの季節。ひところ衰えていた浴衣人気が、とくに若い女性を中心に盛り返してき、そこここで浴衣姿を見かけるようになった。帯と下駄をセットにして、壱万円を少し越える値段で売られている。最近見かける定番の姿は、下駄をはかずに厚底サンダルをはき、ケータイ(携帯電話)を手にぶら下げるといういでたち。澁谷の街あたりでは、ごく普通のスタイルである。厚底サンダルは、元来が歩きにくい履き物なので、闊歩できない不自由さが、かえって浴衣に似合う歩き方になるという皮肉。(清水哲男)




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