q@L句

August 0781999

 校庭に映画はじまるまでの蝉

                           大牧 広

かが、野外映画会の句を作っているはずだと、長年探していた。遂に、見つけた。平凡な句ではあるけれど、私には嬉しい作品だ。若い読者のために説明しておくと、敗戦後の一時期、娯楽に飢えた人々を癒すため(商売ではあったけれど)に、映画館がなかったり遠かったりする村や町では、巡回映画と称した映画会が開かれていた。句のように、たいていは学校の運動場が会場だった。まだ蝉の声しきりの明るいうちから、オート三輪に映写機材やフィルムの缶を乗せたおじさんがやってきて、校庭に大きな白い布のスクリーンを張り、暗くなると、二カ月ほど前くらいの古いニュース映画とメインの劇映画を上映する。料金は忘れたが、子供といえども無料ではなかった。映画館のように囲いもないのだから、料金を払わなくても見ることは可能だった。が、タダで見た人は一人もいなかっただろう。おじさんの目ではなくて、村社会の監視の目が、そういうことを許さなかったからだ。大人も子供も、蝉しぐれの校庭で、間もなくはじまる映画への期待に、いささか興奮している。そんな気分のなかに、作者も一枚加わっている。校庭映画で、小学生の私は谷口千吉監督、黒沢明脚本、三船敏郎出演の『銀嶺の果て』(東宝・1947)などを見た。(清水哲男)


February 0222001

 冬服着る釦ひとつも遊ばせず

                           大牧 広

者は大変な寒がりやで、身内に少しの外気が入るのも許さない。だから、かくのごときの重装備とはあいなる。ひとつの釦(ぼたん)も遊ばせずに、すべてきちんとかけてから外出する。そんな姿は一見律義な人に見えるが、そうではないと作者自身がコメントしている。「(何事につけ)小心ゆえに、適当に過すということができないのである」とも……(「俳句界」2001年2月号)。小心のあらわれようは人さまざまだろうが、服の着方が私とは正反対なので、目についた。私の場合は、よく言えばラフな着方だが、要するにズボラなのである。いちいちボタンをかけるのが面倒くさい。したがって、外気はそこらじゅうから入ってくる。もちろん寒いが、寒かったら襟を掻きあわせるようにして歩く。そんなことをしなくてもちゃんとボタンはついているのだが、それでもかけるのが億劫というのだから、ズボラもここに極まれりだ。性癖と言うしかあるまい。それにしても、ボタンを遊ばせるとは面白い表現だ。本来は仕事をしてもらわなければならないのに遊ばせておくわけで、女性や子供の服にあるような飾りのボタンとは違う。私のように遊ばせすぎるのは話にならないが、適度に遊ばせるのは粋(いき)やダンディズムに通じるようだ。心のゆとり(遊び心)を表現することになるからだろう。外国にも、こういう言い方はあるのだろうか。(清水哲男)


October 06102001

 人なぜか生国を聞く赤のまま

                           大牧 広

が家に遊びに来たドイツ人が、しきりに首をひねっていた。日本人は、なぜ他人の年齢のことを聞くのか。たいていの初対面の人が聞くのだという。「べつに何歳だっていいじゃないか」。「そりゃね、たぶん話題の糸口をみつけたいからだよ」と、私。そういえば、外国人から年齢を尋ねられた覚えはない。逆に、こちらから何歳くらいに見えるかと聞いたことはある。掲句のように、また私たちは相手の「生国(しょうごく)」をよく「聞く」ようだ。とくに意識して聞くことはあまりなく、なんとなく聞いてしまう。やはり「話の接ぎ穂」を探すためではなかろうか。「生国」がたまたま同じだったりすると故郷談義に花を咲かせることができるし、違ったとしても、旅行などで訪れたことがあれば話はつづく。「年齢」や「生国」の話題は、要するに当たり障りなくその場をやり過ごすための方便なのだ。そのあたりが、とくに理屈っぽい話の好きなドイツ人には解せないのだろう。この句の作者は「『生国』なんて、どうでもいいじゃないか」と言っているのではない。作者自身が聞くことも含めて、「なぜかなあ」と思っているだけだ。目に写っているのは、北海道から九州まで、どこの路傍で咲いても同じ風情の「赤のまま(犬蓼)」。人だって同じようなものなのになあ、と。『午後』所収。(清水哲男)


September 2692015

 秋蟬は風が育ててゐるらしく

                           大牧 広

年東京はみんみんが多かったが、台風の影響もあってか蝉の季節はふっつりと終わった気がする。そんなこの連休に海辺の町まで少し遠出した。一時間半ほど電車に揺られて駅に降り立つと、爽やかな風にのって蝉の声が聞こえてきた。残暑の町中で聞く残る蝉は、暑苦しくいつまで鳴いているのかと思うものだが、秋の海風に運ばれてくる蝉声はからりと心地よく不思議と懐かしささえ覚えたのだった。仲間より少し遅れて目覚めた秋の蝉は、そうか風が育てているのか、と深く納得させられ、ゐるらしく、にある清々しい風の余韻に浸っている。『俳句』(2015年10月号)所載。(今井肖子)




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