「粋なジャンパーのアメリカ兵の影を追うよな甘い風」。ヒット曲「東京の花売娘」。




1999N813句(前日までの二句を含む)

August 1381999

 灯籠や美しかりし母とのみ

                           河原白朝

盆に、はるばる十万億土から還ってくる精霊を迎えるために灯す燈籠。この句は、十年以上も前に、TOKYO FMの番組で紹介したことがある。その頃に毎朝放送していた俳句を集めて、後にラジオそのままの語り口を生かし(イラストレーションをつけてくれた友人の松本哉君が、毎朝筆記してくれていた…)て、『今朝の一句』(河出書房新社・1989)という本になった。哀しいかな絶版になってしまったので、ここに再録しておきたい。「仏さまを迎える盆燈籠を吊っているというお宅も多いかと思いますが、作者のまだ小さい頃、物ごころがつかない頃に、作者のお母さんは亡くなっているわけですね。それで、生前のお母さんを知っている人が、君のお母さんはほんとにきれいな人だったよと、いつもこの時期にしのんでくれる。でも、写真一枚残っていない。悲しい句です……」。何度読み返しても、悲しい句であり、美しい句だ。「去る者は日々に疎し」とも言うけれど、作者の場合は逆であろう。美しかったお母さんに、一読者でしかない私も、合掌します。(清水哲男)


August 1281999

 晩年も西瓜の種を吐きちらす

                           八木忠栄

にはもう、その心配はないけれど、見合いの席に出てくると困る食べ物が二つある。一つは殻つきの海老料理で、もう一つが西瓜だ。どちらも、格好をつけていては、食べにくいからである。海老に直接手を触れることなく、箸だけで処理して口元まで持ってくるような芸当は、とうてい私のよくするところではない。西瓜にしても、スプーンで器用に種を弾き出しながら上品に食べる自信などは、からきしない。第一、西瓜をスプーンですくって食べたって、美味くないだろうに。ガブリとかぶりついて、種ごと実を口の中に入れてしまい、ぺっぺっと吐きちらすのが正しい食べ方だ。吐きちらすとまではいかなくとも、種はぺっぺっと出すことである。私が子供のころは、男も女もそうやって食べていたというのに、最近は、どうもいけない。だから、句の作者も、そんな風潮に怒っている。この句は、ついに生涯下品であった人のことを詠んでいるのではない。俺は死ぬまで、西瓜の種を吐きちらしてやるぞという「述志」の句なのだ。事は、西瓜の種には止まらない。世の中のあれやこれやが、作者は西瓜の食べ方のように気にいらないのである。個人誌「いちばん寒い場所」30号(1999年8月15日付)所載。(清水哲男)


August 1181999

 叩かれて昼の蚊を吐く木魚哉

                           夏目漱石

要。僧侶が木魚をポンポンと叩いたら、中で昼寝を決め込んでいた蚊が、飛んで出てきた。それがまた、あたかも木魚が自分で吐いたかのように出てきたというのだから、少なくとも数匹はいたのだろう。「いやあ、驚いたのなんの」と、飛んで出た蚊が言ったかどうかは知らないが、落語好きな漱石ならではの軽妙な句だ。実はこの句ができる四年前に、もう一句「木魚」を詠んだ句「こうろげの飛ぶや木魚の声の下」がある。「こうろげ」は虫の蟋蟀(こおろぎ)。先の蚊の句は、おそらくこの句が下敷きになっていると思われるが、「こうろげ」句よりは洒脱でずっと良い。ところで「こうろげ」句は、二十五歳で早逝した兄の妻・登世の通夜での思いを詠んでいる。登世は漱石が唯一「美人」と言い切った女性であり、死なれた悲しみは深かったようだ。つまり、洒脱に俳句を作る心境になどなくて、こういう句になったということだが、そんな事情を知ると、かなり読む意識が変わってくる。予備知識なしに読んだときとは、句の味も違ってくる。でも、これが俳句というものだろう。予備知識の有無による観賞の差異の問題は、長く俳句の読者を悩ませつづけてきた。『漱石俳句集』(岩波文庫)所収。(清水哲男)




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