昨夜の中日巨人戦は夏休み最高のプレゼント。特に関川と久慈の元阪神組の奮戦ぶり。




1999N818句(前日までの二句を含む)

August 1881999

 手花火に明日帰るべき母子も居り

                           永井龍男

きな花火大会はあらかた終わってしまったが、子供たちの手花火は、まだしばらくつづく。庭や小さな公園で、手花火に興ずる子供たちは生き生きとしている。夜間に外で遊べる興奮もあるからだろう。そんな小さな光の明滅の輪の中に、明日は普段の生活の場所に帰っていく母子の姿もある。「また、来年の夏に会いましょう」と、作者は心のうちで挨拶を送っているのだ。手花火は、小さな光を発して、すぐに消えてしまう。そのはかなさが、しばしの別れの序曲のようである。気がつくと、吹く風には秋の気配も……。夏休みの終りの頃の情緒は、かくありたい。私の父親は、戦後間もなくの東京(現在の、あきる野市)の花火屋に勤めていた。両国の大会では、何度も優勝している。打ち上げると「ピューッ」と音がして上がっていく花火(業界では「笛」と呼ぶ)は、父が考案したものだ。その父がしみじみと言ったことには、「大きい花火はつまらんね。いちばん面白いのは線香花火だな」と。父の博士論文のタイトルは「線香花火の研究」であった。(清水哲男)


August 1781999

 桃食うて煙草を喫うて一人旅

                           星野立子

中吟だろう。車内はすいている。おまけに、一人旅だ。誰に遠慮がいるものか。がぶりと大きな桃にかぶりつき、スパーッと煙草をふかしたりもして、作者はすこぶる機嫌がよろしい。「旅の恥はかきすて」というが、可愛い「恥」のかきすてである。昔(1936年の作)のことだから、男よりも女の一人旅のほうが、解放感が倍したという事情もあるだろう。私は基本的に寂しがり屋なので、望んで一人旅に出かけたことはない。止むを得ずの一人旅は、それでも何度かあり、でも、桃をがぶりどころではなかった。心細くて、ビールばかりを飲むというよりも、舐めるようにして自分を励ますということになった。現地に着いても、すぐに帰りたくなる。困った性分だ。だが、好むと好まざるとに関わらず、私もやがては一人旅に出なければならない時が訪れる。十万億土は遠いだろうから、ビールを何本くらい持っていけばよいのか見当もつかない。帰りたくなっても、盆のときにしか帰れないし……。などと、ラチもないことまで心配してしまう残暑厳しい今日このごろ。『立子句集』(1937)所収。(清水哲男)


August 1681999

 ナフタリン痩せ夏休み半ば過ぐ

                           林 薫

フタリンとは、懐しや。秋冬物を収納した洋服ダンスを、ちょっとした小物か何かを探す必要があって開けたときの感慨だろう。ふと見ると、いくつものナフタリンがかなり痩せてきている。ナフタリン独特の芳香のなかで、不意に作者は時の流れの早さを感じた。そういえば、なんだか永遠につづきそうな感じだった子供たちの夏休みも、もう後半だ……。作者は静かにタンスを閉め、とてもやさしい心になるのである。似たような句に、安住敦の「夏休みも半ばの雨となりにけり」がある。いずれも、単調な日常のなかでの小さな異変に触発されて、時の経過に思いが至っている。とくにナフタリンの句は、芳香の懐しさともあいまって、作者の気持ちがよく伝わってくる。今宵は、京都五山の送り火だ。こうした派手な行事に接すると、否応なく時の流れを感じざるを得ないけれど、そうではない日常的な瑣末な出来事から発想された句の世界に、私はより強い滋味を感じる。(清水哲男)




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