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August 1981999

 茄子焼いて牛の生れし祝酒

                           太田土男

の仔が無事に生まれた。出産に立ち合った男たちの顔に、安堵の表情が浮かぶ。農家にとっては一財産の誕生だから、当然、すぐに祝い酒となる。とりあえずは茄子をジュージューと焼き、冷や酒で乾杯する。野趣溢れる酒盛りだ。ところで、この句は角川版歳時記の季語分類によると「茄子の鴫焼(なすのしぎやき)」の項目に入っている。「茄子の鴫焼」は、茄子を二つに割って焼き、きつね色になったら練り味噌を塗り、さらに焼き上げる。どちらかといえば手間をかけた上品な料理だが、この場合、そんなに面倒な焼き方をするだろうか。と、かつての農家の子は首をかしげている。私の田舎では、単純に茄子を二つに割って焼き、醤油をざぶっとかけて食べていた。ただし、そうやって焼く茄子は、普通の茄子ではなくて、白茄子と呼んでいた大振りの茄子である。本当の色は白ではなくて、瓜に近い色だったが。作者に尋ねてみないとわからないことだけれど、句の勢いからして、どうも鴫焼ではなさそうな気がする。検索ページでは「茄子」からも「茄子の鴫焼」からも引けるようにしておく。(清水哲男)


April 0242001

 一服の茶をげんげ田にかしこまる

                           太田土男

圃一面に咲く紫雲英(げんげ)の花の光景は、昔の農村では日常的なものだった。やがて鋤かれて、土に混ぜ合わされてしまう。肥料になるわけで、鋤かれるのを見ていても、感傷に誘われるようなことはなかった。また来春になれば、必ず同じ光景が戻ってくるからだ。この句を読んで思い出されたのは、視覚的な花ではなく、触覚的な「げんげ」だ。花が咲くと、女の子はもちろん、男の子も「げんげ田」に座り込んで、花輪作りなどをして遊んだ。その座り込んだ感覚が、半世紀という時間を経てよみがえってきた。どんなに天気が良い日でも、花の上に坐ると湿っぽくてひんやりとしていた。掲句は、野良仕事の合間のティー・タイムである。「かしこまる」は、いろいろな意味に取れるが、私はずばり「正座」だと読む。句が作られたのは二十年ほど前のことだから、畦道に置いてあった茶は、たぶん魔法瓶に詰められていただろう。私の頃には薬罐だったので、飲むころには冷たくなっていた。どちらでもよいけれど、茶は「いただく」ものである。したがって、おのずから自然に「正座」となる。この湿っぽく冷たい「げんげ」の感触があってこそ、はじめて春の野良で喫する茶の美味さが味わえる。茶に限らず、まだ日本人には立ち飲み、立ち食いの習慣はなかった。はしたないことと、されていた。そのころ覚えた歌に、西條八十の「お菓子と娘」がある。一節に「選る間も遅し エクレール/腰もかけずに むしゃむしゃと/食べて口拭く 巴里娘」とあり、仰天した。でも、巴里(パリ)のお姉さんたちって奔放で恰好いいんだなあとも思った。後年はじめてパリに行ったときに、当然思い出した。意識して「巴里娘」を見ていると、お菓子をほおばりながら歩いている女性はいるはずもなく、くわえ煙草で歩く若い女性たちが目についた。たいていが「パルドン」を連発しながら、人を蹴飛ばすようにして歩いていた。恰好悪いなと思った。最近のの日本でも、くわえ煙草の女性が目立ってきた。家やオフィスでは、喫えないからだろう。でも、恰好よい娘はほとんど見かけない。格好良く煙草を喫うのは、とても難しいのだ。あれっ、また脱線しちゃったかな……(苦笑)。『太田土男集』(2001)所収(清水哲男)


May 2552001

 四百の牛掻き消して雹が降る

                           太田土男

事で出かけたグランド・キャニオンで、猛烈な雹(ひょう)に見舞われたことがある。鶏卵大と言うと大袈裟だが、少なくとも大きなビー玉くらいはあった。そいつが一天にわかに掻き曇ったかと見るや、ばらばらっと叩きつけるように降ってきた。やばいっ。幸い近くにあったモーテルに逃げ込み、持っていた8ミリカメラを夢中で回した。あのときのフィルムは、まだ家のどこかにあるはずだが……。降っていた時間は、せいぜい十分ほどだったろうか。止むとすぐに、嘘のような青空が広がった。歳時記などで「雹」の解説を見ると、人畜に危険なこともあると書いてあるが、本当だ。掲句の舞台はむろん国内で、自註によると栃木の牧場である。日本でも、こんなに猛烈な雹が降る土地があるとは知らなかった。「四百の牛」とはほぼ実数に近いとも読めるが、私は「たくさんの牛」と読んだ。「四百四病」「四百余州」と言うように、「四百」は多数も意味する。そのたくさんの牛たちが、いっせいに見えなくなるほどに降るとは、なんたる豪快さ。恐いというよりも、むしろ小気味のよい降りだったろう。自然を満喫するとは、こういうことに違いない。身辺雑記的人事句も悪くはないが、このような句に「掻き消され」てしまうのは止むを得ないところである。『太田土男集』(2001)所収。(清水哲男)


October 19102001

 籾殻焼母に呼ばれて日暮なり

                           太田土男

語は「籾(もみ)」で秋。籾摺り(もみすり)をした後に残った籾殻(もみがら)は、戸外で焼く。勢いよくは焼けずに、じわじわと焼けていく。昼も夜も、くすぶりつづける。明るい間は炎も見えないが、暗くなってくると焼けて黒くなった籾殻の奥に、赤く熾火(おきび)のように見える。そこを棒で突いてやると、ぱっと火の粉が舞い上がる。遊びというほどのことでもなく、たしかに子供らは吸い寄せられるように集まり、やがて母親に呼ばれて散っていった。散るときに、はじめて「夕暮なり」の実感が湧く。掲句は、ぴしゃりとそこを押さえている。私の記憶では、火に吸い寄せられたというよりも、そのほわんとした暖かさに足が向いたという感じである。焚き火のように、顔が痛いような熱さはない。田舎でも都会でも、昔は夕暮れが近づくと、句のように母親が遠くから子供を呼ぶ声がしたものだった。「ごはんだよーっ」。私などは「はーい」と答えておいてから、なおその場を去りがたくグズグズしていた。そんなときに、未練がましくも棒でつついたりするのだ。昔の多くの子供にとっては、テレビがあるわけじゃなし、我が家はいちばん退屈な場所だったと思う。ハックルベリー・フィンなんて奴に憧れたのも、むべなるかな。懐かしくはあるが、もうあんな時代に戻りたくはない。『太田土男集』(2001)所収。(清水哲男)


March 1632002

 子らの皆東京へ出し種おろし

                           太田土男

を読んで、一瞬むねの内に苦い思いの走る世代は、確実に存在するだろう。1980年(昭和55年)の作。季語は「種おろし」で春。「出し」は「でし」と読ませている。種おろしは苗代に種を蒔くことであり、「種蒔(たねまき)」と同義だ。野菜や花の種を蒔くことは「物種(ものだね)蒔く」と言って、古くから季語的には区別されてきた。それだけ、米作りは大切だったのだ。解釈の必要はあるまい。働き手の「子ら」はみな東京へ出ていってしまい、この春は残った家族だけの寂しい種蒔となった。蒔きながら、東京で「皆」元気にしているかなと気づかう親ならではの思いが滲み出ている。他方、東京へ出た子らも、いまごろは種蒔で大変だなと親の苦労を思いやっている。どこにもそんなことは書いてないけれど、そういう句だ。東京や大阪などの大都会に若者が流出し、父親もまた出稼ぎに行った時代。田舎を出る人のおおかたは、戦前のような立身出世を夢見てではなかった。農業ではお先真っ暗と察知しての若者たちの決意からであり、現金収入を得たいがための父親たちの里離れだった。「三ちゃん農業」と言われ、農作業は「かあちゃん、じいちゃん、ばあちゃん」の手にゆだねられ……。そもそもの発端は、1961年の「農業基本法」公布にある。端的に言えば、法の真意は小農の切り捨てだった。いまでは育苗箱への種蒔がほとんどだから、まず句のような情景は見られない。しかし、掲句にずきんと反応する人は、依然として多く都会で暮らしている。もとより、そのなかには政治家もいる。『太田土男集』(2001)所収。(清水哲男)


March 0732006

 春の宵遺体の母と二人きり

                           太田土男

語は「春の宵」。句意は明瞭だ。通夜の座で、束の間のことではあろうが、たまたま部屋に一人きりとなった。いや、正確には「母と二人きり」になった。そのことを詠んでいるだけだが、普通の感覚からすると「遺体」という表現はひどく生々しくて気にかかる。そこまであからさまな言い方はしなくても、他にいくらでも言い換えは可能だ。だが作者は、それを百も承知で「遺体」と言わざるを得なかったのだと思う。つまりこの句では、この「遺体」の表現に込められた思いが重要なのである。すなわち、母上が亡くなり、その死を覚悟していたかどうかは別にして、作者はいざ母の死に直面して混乱してしまっている。いわば悲しみのわき上がってくる前の心の持ち方が、定まらないのだ。だからこそ、いま目の前に横たわっている母は、既に故人なのだということを、何度もおのれ自身に言い聞かせなければならなかったのだろう。それが作者に,生々しくも「遺体」という表現をとらせたのだと思われる。となれば、お母さんはもう「遺体」なのだと何度も繰り返し、戸惑いを克服して自己納得するまでの精神的経緯が、すなわち掲句のテーマでなければならない。したがってこの句は、通常言うところの惜別の句などではない。あくまでも自己に執した、自己憐憫の静かな歌だ。句集では,この句のあとに「蝶々と百歳の母渉りゆく」があり、生々しい「遺体」句を読んだ読者は、ここでようやくほっとできるのである。『草原』(2006)所収。(清水哲男)


May 1952015

 草笛を吹く弟の分も吹く

                           太田土男

笛はコツさえつかめばどんな葉でも音がするのだというが、一度として成功したためしがない。口笛さえ吹けないのだから当然といえば当然かもしれない。掲句では、幼い兄弟の様子とも思ったが、大人になってからの草笛と思い直した。ふと手に取った草の一片を唇に当て、昔通りの音が思いがけず出たとき、子供の頃の思い出がよみがえったのだろう。兄弟揃って吹いて歩いたなつかしい景色や、弟の背丈などがどっと押し寄せるように思い出される。今ここにいない弟の分を、もう一枚、草笛にして吹いてみる。きっとあの日と同じ苦いようなほこりっぽいような草の味が口中に広がっていることだろう。『花綵(はなづな)』(2015)所収。(土肥あき子)




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