桐生一高、おめでとう。大差ながら、最後まで見た。ピッチャーの表情に魅せられて。




1999ソスN8ソスソス22ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2281999

 これよりの心きめんと昼寝かな

                           深見けん二

題にぶち当たる。さあ、どうしたものか。これから「心をきめ」ようという大事なときに、昼寝をするというのは妙だと思われるかもしれない。が、私にはこういう気持ちがよく起きる。というのも、あれこれの思案の果てに疲れてしまうということがあり、思案の道筋をいったん絶ち切りたいという気持ちにもなるからである。思案の堂々巡りを中断し、また新しいアングルから難題を解くヒントを見つけるためには、一度意識の流れを切ってしまうことが必要だ。平たく言えば「ごちゃごちゃ考えても、しゃあない」ときがある。そんなときには、昼寝にかぎる。昼寝は夜の睡眠とは違って短いし、また明るい時間に目覚めることができる。そうした物理的な理由も手伝って、目覚めた後への期待が持てる。終日の思案の果てに就寝すると、一日を棒に振った気持ちになるが、そういうこともない。あくまでも小休止だと、心を納得させて眠りにつける。句は、そういうことを言っている。昼寝の句としては珍しいテーマと言えようが、人間心理の観察記録としては至極真っ当だと、私には読めた。『父子唱和』(1956)所収。(清水哲男)


August 2181999

 ねる前にねましたと書く日記帳

                           森家裕美子

者は十四歳。中学二年生。例の伊藤園の「おーいお茶」コンテストでユニーク賞を受けた作品だ。「日記買ふ」は冬の季語であり「日記始」は新年のそれだが、単に「日記帳」といえば無季である。が、私などは夏休みの日記に悩まされたクチなので、夏を想起してしまった。まだ寝てもいないのに、何時に寝ましたと書くのは、確かに変だ。でも、一日の終りの行為は寝ることにあるのだから、寝ましたと書かないと一日が終了しない。日記帳を、閉じることができない。しごく素朴な疑問をストレートに詠んだがための「ユニーク」さがある。裕美子ちゃんは、真面目な女の子なのだ。ひるがえって、実はこの問題は、このページで書いている他ならぬ私自身の問題でもある。ページが午前零時にオートマティックに次の日の内容に切り替わるので、寝る前に「今宵は大文字の送り火……」などと、次の日のことを書くときには、なんとなく後ろめたくなったりする。となると、私にも裕美子ちゃん並みの真面目さがあるということなのだろうか。この句に出会って、正直ホッとした。私だけが、ひとりでクヨクヨしているわけではなかったのだ。「自由語り」(1997)所載。(清水哲男)


August 2081999

 油蝉死せり夕日へ両手つき

                           岡本 眸

ろそろ、油蝉の季節も終りに近づいてきた。地上に出てきた蝉の寿命は短いから、夏の間蝉はいつでも死につづけている理屈だが、この句は夕日を強調していることもあり、初秋に近い作品だろう。偶然の死に姿とはわかっていても、その夕日に謝しているような姿勢が、心を有したものの最期のように思えてくる。激しくも壮烈な死を遂げた、という感じだ。荘厳ですらある。作者は見たままに詠んでいて、格別の作為はない。そこが、よい。見事という他はない。このところ、放送の仕事が終わると、バス・ストップまで西日を正面から浴びて歩く。それだけで、汗だくになる。バスに乗ったら乗ったで、その強烈な陽射しが、冷房を利かせないほどだ。とても、夕日側の窓の席に着く度胸はない。少々混んでいても、そんな席だけはぽつりぽつりと空いているのだから、物凄い暑さである。バスを降りて五分ほど、今度は蝉しぐれと排気ガスでむうっとした道を帰る。そういえば、今年はまだ蝉の抜け殻も死骸も見ていない。『冬』(1976)所収。(清水哲男)




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