娘がドイツに帰っていった。無事到着とFAX。これで、我が家の夏休みもおしまい。




1999ソスN8ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2381999

 万屋に秋は来にけり棒束子

                           川崎展宏

然の様相の変化に移りゆく季節を感じるように、人工的な商店のしつらいからも、私たちはそれを感じる。洋品店のウィンドウなどが典型だろうが、昨今の反応は素早すぎて味気ない。万屋(よろずや)は生活雑貨全般を商う店で、かつてはどんな小さな村にも一軒はあった。洋品店とは逆に地味な動きしか見せないけれど、新しい季節のための商品が、やはり店先など目立つところに並べられる。この場合は、束子に長い柄をつけた棒束子(ぼうたわし)だ。四角四面に言うと季節商品ではないが、直接冷たい水に触れることなく掃除ができるという意味では、秋から冬にかけての需要が多いのだろう。店の入り口に立て掛けてある何本かの棒束子。昨日通りかかったときには、なかったはずだ。暑い暑いと言っているうちに、もう秋なのである。客がいないかぎり、万屋に店番はいない。そこで、表から大きな声で挨拶してから店に入る。万屋以外の店に入るのにも、必ず挨拶してから入った。現代では、無言のままにぬうっと入店する。時代も移ろいつつ進んでゆく。『葛の葉』(1973)所収。(清水哲男)


August 2281999

 これよりの心きめんと昼寝かな

                           深見けん二

題にぶち当たる。さあ、どうしたものか。これから「心をきめ」ようという大事なときに、昼寝をするというのは妙だと思われるかもしれない。が、私にはこういう気持ちがよく起きる。というのも、あれこれの思案の果てに疲れてしまうということがあり、思案の道筋をいったん絶ち切りたいという気持ちにもなるからである。思案の堂々巡りを中断し、また新しいアングルから難題を解くヒントを見つけるためには、一度意識の流れを切ってしまうことが必要だ。平たく言えば「ごちゃごちゃ考えても、しゃあない」ときがある。そんなときには、昼寝にかぎる。昼寝は夜の睡眠とは違って短いし、また明るい時間に目覚めることができる。そうした物理的な理由も手伝って、目覚めた後への期待が持てる。終日の思案の果てに就寝すると、一日を棒に振った気持ちになるが、そういうこともない。あくまでも小休止だと、心を納得させて眠りにつける。句は、そういうことを言っている。昼寝の句としては珍しいテーマと言えようが、人間心理の観察記録としては至極真っ当だと、私には読めた。『父子唱和』(1956)所収。(清水哲男)


August 2181999

 ねる前にねましたと書く日記帳

                           森家裕美子

者は十四歳。中学二年生。例の伊藤園の「おーいお茶」コンテストでユニーク賞を受けた作品だ。「日記買ふ」は冬の季語であり「日記始」は新年のそれだが、単に「日記帳」といえば無季である。が、私などは夏休みの日記に悩まされたクチなので、夏を想起してしまった。まだ寝てもいないのに、何時に寝ましたと書くのは、確かに変だ。でも、一日の終りの行為は寝ることにあるのだから、寝ましたと書かないと一日が終了しない。日記帳を、閉じることができない。しごく素朴な疑問をストレートに詠んだがための「ユニーク」さがある。裕美子ちゃんは、真面目な女の子なのだ。ひるがえって、実はこの問題は、このページで書いている他ならぬ私自身の問題でもある。ページが午前零時にオートマティックに次の日の内容に切り替わるので、寝る前に「今宵は大文字の送り火……」などと、次の日のことを書くときには、なんとなく後ろめたくなったりする。となると、私にも裕美子ちゃん並みの真面目さがあるということなのだろうか。この句に出会って、正直ホッとした。私だけが、ひとりでクヨクヨしているわけではなかったのだ。「自由語り」(1997)所載。(清水哲男)




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