長雨猛暑のせいで野菜の値段が高騰。キャベツは昨年の二倍にも。稲の生育はどうか。




1999ソスN8ソスソス25ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2581999

 対岸は輝きにけり鬼やんま

                           沼尻巳津子

岸が輝いているのは、そちら側に夕日がさしているからだ。川岸に立つ作者の目の前を、ときおり大きな鬼やんまが凄いスピードで飛んでいく。吹く風も心地好い秋の夕暮れだ。心身ともにコンディションがよくないと、こうした句は生まれない。それにしても、「鬼やんま」とは懐しい。最近はめっきり少なくなったようで、最後に見かけたのはいつごろだったろうか。もう、四半世紀以上も見たことがないような気がする。昔の子供としては、当然「蜻蛉釣り」にうつつを抜かした時期があり、「鬼やんま」をつかまえるのが最も難しかった。なにしろ、飛ぶ速度が早い。尋常のスピードではない。だから、まず捕虫網などでは無理だった。太い糸の両端に小石を結びつけ、こいつを「鬼やんま」の進路に見当をつけて投げ上げる。うまくからみつけば、さしもの「鬼やんま」もばたりと落ちてくる寸法だ。熟練しないと、なかなかそうは問屋がおろさない。小さい子には無理な技であった。句が作られたのは、四半世紀ほど前のことらしい。東京の人だから、その当時の東京にも、いる所にはいたということだ。『華彌撒』(1983)所収。(清水哲男)


August 2481999

 彼方の男女虫の言葉を交わしおり

                           原子公平

会の公園だろうか。それとも、もう少し草深い田舎道あたりでの所見だろうか。夕暮れ時で、あたりでは盛んに秋の虫が鳴きはじめた。ふと遠くを見やると、一組の恋人たちとおぼしき男女が語らっている様子が見える。が、見えるだけであって、むろん交わされている言葉までは聞こえてはこない。彼らはきっと、作者の周囲で鳴く虫と同じような言葉でささやきあっているのだろう。そんな錯覚にとらわれてしまった。が、錯覚ではあるにしても、人間同士の愛語も虫どものそれも、しょせんは似たようなものではあるまいか。と、そんなことを作者は感じている。すなわち、愛語は音声を発すること自体に重要な意味あいがあるのであって、言葉の中身にさしたる意味があるわけではない場合が多いからだ。皮肉は一切抜きにして、作者は微笑とともに、そういうことを言っているのだと思う。ああ、過ぎ去りし我が青春の日々よ。作者は、それから半ば憮然として、この場を足早に立ち去ったことだろう。『海は恋人』(1987)所収。(清水哲男)


August 2381999

 万屋に秋は来にけり棒束子

                           川崎展宏

然の様相の変化に移りゆく季節を感じるように、人工的な商店のしつらいからも、私たちはそれを感じる。洋品店のウィンドウなどが典型だろうが、昨今の反応は素早すぎて味気ない。万屋(よろずや)は生活雑貨全般を商う店で、かつてはどんな小さな村にも一軒はあった。洋品店とは逆に地味な動きしか見せないけれど、新しい季節のための商品が、やはり店先など目立つところに並べられる。この場合は、束子に長い柄をつけた棒束子(ぼうたわし)だ。四角四面に言うと季節商品ではないが、直接冷たい水に触れることなく掃除ができるという意味では、秋から冬にかけての需要が多いのだろう。店の入り口に立て掛けてある何本かの棒束子。昨日通りかかったときには、なかったはずだ。暑い暑いと言っているうちに、もう秋なのである。客がいないかぎり、万屋に店番はいない。そこで、表から大きな声で挨拶してから店に入る。万屋以外の店に入るのにも、必ず挨拶してから入った。現代では、無言のままにぬうっと入店する。時代も移ろいつつ進んでゆく。『葛の葉』(1973)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます