どういう風の吹き回しか、急に秋風が吹いてきた(笑)。残暑はまだ厳しいと気象庁。




1999ソスN8ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2681999

 晩夏光バットの函に詩をしるす

                           中村草田男

に暦の上では秋であるが、実際に「夏終わる」の感慨がわくのは、今の時期だろう。「バット」(正式には「ゴールデンバット」)は煙草の銘柄。細巻きで短く、安煙草の代表格だった。「函」とあるけれど、いわゆるボックス・タイプではなかったように思う。それとも、私の知る以前のものは堅い函に入っていたのだろうか。いずれにしても、作者はふと浮かんだ句を、忘れないようにと煙草の函に書きとめたのである。とりわけて夏場に旺盛な創作欲を示した草田男のことだから、いささか秋色を増してきた光のなかでのメモには、特別な感傷を覚えたにちがいない。そして、このときに書かれた「詩」が、すなわちこの句であったと想像すると面白い。句が先にあって、句の中身をなす行為が後からついていっているからである。「見たまま俳句」ではなく「見る前俳句」だ。はじめて読んだときに、根拠もなくそう感じたのは何故だろうか。手近にメモ用紙がないときに、よく利用されるのが箸袋だが、この場合はやはり「バット」でないと具合が悪いだろう。金色の「バット(蝙蝠)」マークが晩夏の光色に照応して、隠し味になっている。(清水哲男)


August 2581999

 対岸は輝きにけり鬼やんま

                           沼尻巳津子

岸が輝いているのは、そちら側に夕日がさしているからだ。川岸に立つ作者の目の前を、ときおり大きな鬼やんまが凄いスピードで飛んでいく。吹く風も心地好い秋の夕暮れだ。心身ともにコンディションがよくないと、こうした句は生まれない。それにしても、「鬼やんま」とは懐しい。最近はめっきり少なくなったようで、最後に見かけたのはいつごろだったろうか。もう、四半世紀以上も見たことがないような気がする。昔の子供としては、当然「蜻蛉釣り」にうつつを抜かした時期があり、「鬼やんま」をつかまえるのが最も難しかった。なにしろ、飛ぶ速度が早い。尋常のスピードではない。だから、まず捕虫網などでは無理だった。太い糸の両端に小石を結びつけ、こいつを「鬼やんま」の進路に見当をつけて投げ上げる。うまくからみつけば、さしもの「鬼やんま」もばたりと落ちてくる寸法だ。熟練しないと、なかなかそうは問屋がおろさない。小さい子には無理な技であった。句が作られたのは、四半世紀ほど前のことらしい。東京の人だから、その当時の東京にも、いる所にはいたということだ。『華彌撒』(1983)所収。(清水哲男)


August 2481999

 彼方の男女虫の言葉を交わしおり

                           原子公平

会の公園だろうか。それとも、もう少し草深い田舎道あたりでの所見だろうか。夕暮れ時で、あたりでは盛んに秋の虫が鳴きはじめた。ふと遠くを見やると、一組の恋人たちとおぼしき男女が語らっている様子が見える。が、見えるだけであって、むろん交わされている言葉までは聞こえてはこない。彼らはきっと、作者の周囲で鳴く虫と同じような言葉でささやきあっているのだろう。そんな錯覚にとらわれてしまった。が、錯覚ではあるにしても、人間同士の愛語も虫どものそれも、しょせんは似たようなものではあるまいか。と、そんなことを作者は感じている。すなわち、愛語は音声を発すること自体に重要な意味あいがあるのであって、言葉の中身にさしたる意味があるわけではない場合が多いからだ。皮肉は一切抜きにして、作者は微笑とともに、そういうことを言っているのだと思う。ああ、過ぎ去りし我が青春の日々よ。作者は、それから半ば憮然として、この場を足早に立ち去ったことだろう。『海は恋人』(1987)所収。(清水哲男)




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