September 071999
れもん滴り夜に触れし香を昇らしむ
櫛原希伊子
れもん(檸檬)の故郷はインド。ただし、日本が輸入しているのは、多くアメリカ西海岸からだ。一年中出回っているので季節感に乏しい果実だが、秋に実るので秋の季語とされてきた。句意は明瞭だ。ただし「れもん(を)絞り」ではなく「滴り」と詠んだところが、句品を高める技巧の妙と言うべきか。「絞り」と書けば主語は作者になるけれど、「滴り」の主語は「れもん」それ自体である。誰が絞って滴らせたわけでもない。すなわち、ここでの「れもん」は、あたかも神の御手が絞り給うたかのようにとらえられており、そのことを受けて作者は香を天に「昇らし」めている。夕食後の紅茶のひとときでもあろうか。「れもん」が貴重だったころの檸檬賛歌として、極めて上質な抒情句と言えよう。こんなふうに檸檬の香を大切にして楽しんだ時代が、懐しい。それに引き換え、何にでもレモンを添えてくる昨今の食べ物屋の無粋は、なんとかならないものか。最も腹が立つのは、コーラにまでくっつけてくる店だ。イヤだねえ、田舎者は。同じ田舎者として、恥ずかしくて顔が赤くなる。(清水哲男)
October 102005
うつうつと一個のれもん妊れり
三橋鷹女
季語は「れもん(檸檬)」で秋。妊(みごも)ったときの心境には、妊ったことのない者には絶対にわからない複雑なものが入り交じっているだろう。周囲から祝福の言葉をかけられても、それは当人の気持ちのほんの一部に照応するのみなのであって、そう簡単に心身の整理がつくものではあるまい。だからこその「うつうつと」であり、幸福そうな明るい色彩の「一個のれもん」にすら、むしろ鬱陶しさを感じてしまう。とまあ、私は男だから、このあたりまでしか句への思いがいたらない。ただ、この「れもん」は「りんご」や「みかん」と置き換えることができそうでいて、しかし代替は不可能だということはよくわかる。「れもん」には、どことなく韻文的な神秘性が秘められている感じがあるからだ。「りんご」は散文的にわかってしまうが、「れもん」にはそうしたわかりやすさがないのである。それはたとえば梶井基次郎が『檸檬』で書いたように、だ。京都の丸善で、開いて積み上げた画集の上に、「うつうつと」した梶井が「檸檬」を時限爆弾のように仕掛けて立ち去る。この有名な場面も、檸檬でなくては話にならないだろう。ところで、この京都の丸善が本日をもって閉店するという。もっとも、梶井の短編に出てくる店は現在の河原町通りとは場所が違うけれど、とまれ明治五年(1872年)創業の老舗が消えてゆくのは、やはり時世というべきなのか。京都も、また少し寂しくなるな。『新日本大歳時記・秋』(1999・講談社)所載。(清水哲男)
July 162008
雲ひとつ浮かんで夜の乳房かな
浅井愼平
無季句。季語はないけれども厳寒の冬ではなく、春あるいは夏の夜だろうと私には思われる。まだ薄あかるく感じられる夜空に、白い雲が動くともなくひとつふんわりと浮かんでいる。雲というものは人の顔にも、動物の姿などにも見てとれることがあって、それはそれでけっこう見飽きることがない。雲は動かないように見えていて、表情はそれとなく刻々に変化している。この句の場合、雲はふくよかな乳房のように愼平には感じられたのであろう。対象を見逃さない写真家の健康な想像力がはたらいている。遠い夜空に雲がひとつ浮かんでいて、さて、目の前には豊かな乳房があらわれている――という情景ととらえてもよいのかも知れない(このあたりの解釈は分かれそうな気がする)。そうだとしても、この句にいやらしさは微塵もない。夜空の雲を見あげる写真家の鋭いまなざしと、豊かな想像力が同時に印象深く感じられる。カメラのピントもこころのピントもぴたりと合っていて、確かなシャッターの音までもはっきりと聞こえてきそうである。「色のなき写真の中のレモンかな」という別の句にも、同様に写真家によるすっきりした構図といったものが無理なく感じられる。『夜の雲』(2007)所収。(八木忠栄)
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