広告では美女の微笑。記事では誰もが仏頂面。新聞を開くたびに、世の中変だと思う。




1999ソスN9ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0991999

 竹の実に寺山あさき日ざしかな

                           飯田蛇笏

よろと頬を撫でる秋風のように、寺山の日はあさく、句も淡い。実に淡々としていて、水彩画のようなスケッチだ。が、この句の情景を実際に目の前にした人のほとんどは、「えらいこっちゃ」と大騒ぎをしていたはずである。作者のように、落ち着きはらってはいられなかったろう。竹に花が咲き実を結ぶのは、およそ六十年周期だからだ。六十年に一度しか、こういうことは起こらない。一生に一度、見られるかどうかの珍しい現象なのである。竹は「いね科」の植物だから、素人的にも、実を結ぶことに違和感はない。しかし、その形状や質感までは、見当もつかない。「いね」のように穂をつけて、たわわに稔って飢饉を救ったたという伝説はあるけれど、どんな「実」なのだろう。私は三十代に旧盆の故郷を訪れ、偶然に竹の花を見たことがある。竹林全体が、真っ黄色だった。「珍しいねえ」と私は言い、「これで山が駄目になる」と友人は暗い顔をした。カメラを持っていったのに、写真一枚撮れなかった。尻切れトンボだが、「9」という数字がたくさん並ぶ珍しい今日よりも、もっと珍しい句があったというわけで……。(清水哲男)


September 0891999

 おしろいが咲いて子供が育つ露路

                           菖蒲あや

しろい(白粉花)は、午後四時ごろから咲きはじめる。夜通し咲きつづけ、朝まで咲いている。夜の花だ。といって月下美人のような華麗さは微塵もなく、薄幸の庶民的な少女とでも呼びたいような風情である。事情があって夜の仕事についた少女が、おずおずと化粧をはじめる時刻に、この花も咲く。そんなイメージがあるので、長い間私は、そのあたりが命名の由来かと思っていた。が、大外れ。種子のなかにある白い粉の胚乳が、白粉のように見えるからなのだそうだ。チエッ、種子とは気がつかなかった。しかも、原産地は熱帯アメリカだという。なんのことはない、暑さを避けて咲いているだけの話じゃないか。根性のない花だ。夢が壊れた。でも、この句を観賞するためには、薄幸の少女像なんぞは邪魔になる。下町だろう、白粉花が咲くころに、学校から戻ってきた子供たちが、元気よく駆け回っている。昔の子供と同じように、この子供らもすくすく育っていくのだ。夕刻の露路の活気を詠んでいる。子供たちの元気に、作者も元気づけられている。(清水哲男)


September 0791999

 れもん滴り夜に触れし香を昇らしむ

                           櫛原希伊子

もん(檸檬)の故郷はインド。ただし、日本が輸入しているのは、多くアメリカ西海岸からだ。一年中出回っているので季節感に乏しい果実だが、秋に実るので秋の季語とされてきた。句意は明瞭だ。ただし「れもん(を)絞り」ではなく「滴り」と詠んだところが、句品を高める技巧の妙と言うべきか。「絞り」と書けば主語は作者になるけれど、「滴り」の主語は「れもん」それ自体である。誰が絞って滴らせたわけでもない。すなわち、ここでの「れもん」は、あたかも神の御手が絞り給うたかのようにとらえられており、そのことを受けて作者は香を天に「昇らし」めている。夕食後の紅茶のひとときでもあろうか。「れもん」が貴重だったころの檸檬賛歌として、極めて上質な抒情句と言えよう。こんなふうに檸檬の香を大切にして楽しんだ時代が、懐しい。それに引き換え、何にでもレモンを添えてくる昨今の食べ物屋の無粋は、なんとかならないものか。最も腹が立つのは、コーラにまでくっつけてくる店だ。イヤだねえ、田舎者は。同じ田舎者として、恥ずかしくて顔が赤くなる。(清水哲男)




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