まことに奇妙な編成の日本野球チーム。オリンピックなんて、もう止めたほうがいい。




1999ソスN9ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1191999

 私生児が畳をかつぐ秋まつり

                           寺山修司

いころに父親を失った作者が、「私生児」に関心を抱いたのは当然だろう。関心の持ち方も、どちらかといえば羨望を覚えるニュアンスのそれであった。彼ほどに父親の不在にこだわり、また母親の存在にこだわった表現者も珍しい。作品のなかで、何度も母を殺している。この句は、二通りの解釈が可能だ。一つは、主人公が畳屋の職人で、秋祭の最中にも仕事に追いまくられているという図。他の若い衆は威勢よく神輿をかついでいるというのに、畳をかつがなければならない身の哀しさ。もう一つは、まさに字義通りに、秋祭でひとり実際に畳をかついでいる男という解釈。外国の実験映画に、波打ち際でひたすらタンスをかついで歩くだけの男たちを撮影した作品があった。日常感覚を逸脱する奇妙なリアリティを感じた覚えがある。句は、その世界に近い。……と、二通りに読んでから、今度は二つの解釈を合体させる。すると、寺山修司の意図した世界が見えてくる。日常的な哀話が下敷きとなって、非日常的な男の行為が目の前に出現すると、句は一つの現実的なオブジェのように起き上がってくるのだ。狂気の具象化と言ってもよいだろう。『花粉航海』(1975)所収。(清水哲男)


September 1091999

 秋風や昼餉に出でしビルの谷

                           草間時彦

フィス街の昼時である。山の谷間に秋風が吹くように、ビルの谷にも季節を感じさせる風は吹く。秋だなアと風に吹かれながら、なじみの定食屋の暖簾をくぐると、おやじさんが「今日は鯖がうまいよっ。秋はやっぱりサバだねエ」などと声をかけてくる。そこで、ひょっとすると冷凍物かもしれない格安の「秋鯖の味噌煮」なんてものを注文する羽目になったりする。九月初旬、安い秋刀魚を出す店も大いにアヤしい。定食屋の多くは、しょせん舌の肥えていない、量ばかり要求する客を相手に商売をしているのだから、それでいいのである。仕事が順調であれば、それも楽しいのだ。が、そうでないときには、少々イヤミを言って引き上げる。そんなこんなで、春夏秋冬の過ぎていくサラリーマン生活。その哀歓が、さりげなく描かれている句だ。「昼餉」時という設定が、多くのサラリーマンの共感を呼ぶだろう。勤めた人にしかわからないが、なんでもないような昼餉時に、あれで結構ドラマは起きているのだ。珍しく上司に鰻屋にでも誘われようものなら、サア大変。社に戻るまでの秋風の身にしみることったら……。『中年』(1965)所収。(清水哲男)


September 0991999

 竹の実に寺山あさき日ざしかな

                           飯田蛇笏

よろと頬を撫でる秋風のように、寺山の日はあさく、句も淡い。実に淡々としていて、水彩画のようなスケッチだ。が、この句の情景を実際に目の前にした人のほとんどは、「えらいこっちゃ」と大騒ぎをしていたはずである。作者のように、落ち着きはらってはいられなかったろう。竹に花が咲き実を結ぶのは、およそ六十年周期だからだ。六十年に一度しか、こういうことは起こらない。一生に一度、見られるかどうかの珍しい現象なのである。竹は「いね科」の植物だから、素人的にも、実を結ぶことに違和感はない。しかし、その形状や質感までは、見当もつかない。「いね」のように穂をつけて、たわわに稔って飢饉を救ったたという伝説はあるけれど、どんな「実」なのだろう。私は三十代に旧盆の故郷を訪れ、偶然に竹の花を見たことがある。竹林全体が、真っ黄色だった。「珍しいねえ」と私は言い、「これで山が駄目になる」と友人は暗い顔をした。カメラを持っていったのに、写真一枚撮れなかった。尻切れトンボだが、「9」という数字がたくさん並ぶ珍しい今日よりも、もっと珍しい句があったというわけで……。(清水哲男)




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