iMac内装。あれもこれもと欲張れない性質。どんどん削っていくだけ。貧乏性なり。




1999ソスN9ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1991999

 火だるまの秋刀魚を妻が食はせけり

                           秋元不死男

焦げの秋刀魚(さんま)。商売人が焼くようには、うまく焼けないのが秋刀魚である。でも、うまく焼けなくても、うまいのも秋刀魚だ。火だるまの秋刀魚も、また良し。炭化寸前の部分に、案外なうまみがあったりする。第一、火だるまのほうが景気がいいや…。と、結局のところで、妻の焼き方の下手さ加減を嘆じつつも、作者は彼女を慰めていると読んだ。ただし、これは秋刀魚だから句になるのであって、たとえば鰯(いわし)などでは話にならない。さて、秋刀魚に詩的情趣を与えたのは、御存じ・佐藤春夫の「秋刀魚の歌」(『わが一九二二年』所収)である。「あはれ/秋風よ/情(こころ)あらば伝へてよ/……男ありて/今日の夕餉に ひとり/さんまを食(くら)ひて/思ひにふける と。」にはじまる詩の哀調は、さながら秋刀魚に添えられる大根おろしのように、この魚の存在を引き立ててきた。ところで 今年の秋刀魚は、昨年につづいて不漁だという。平年だと一尾100円のものが、150円ほどはしている。そこで橋本夢道に、この一句あり。「さんま食いたしされどさんまは空を泳ぐ」。(清水哲男)


September 1891999

 山ばかりつづくしこ名や草相撲

                           門司玄洋人

撲は秋の季語。桓武天皇の時代から、宮中での相撲節会が、陰暦七月の終わり頃に行われてきたことによる。ところで、相撲の句というと、ひいきの力士が勝負に負けた哀感や、老いた相撲取りの姿などを詠むことが多い。力勝負の世界では、弱者のほうが絵になりやすいからだ。そんななかで、この句はあっけらかんと異色である。下手くそで弱いくせに、出てくる奴はみな「……山」と強そうな名前ばかり。鼻白んでいるのではなく、作者はむしろ呆れている。しかし、それが草相撲の楽しさであるとも言っている。いまの大相撲でも「武双山」「旭鷲山」「雅山」「千代天山」など「山」のつく力士は多く、やはり動かざること山のごとし、というイメージにこだわった結果なのか。反対に、最近影が薄いのは「川」の名だろう。「海」はあるが、「川」はほとんど見られなくなった。私が好きだった上手投げの名人「清水川」の頃には、「川」を名乗った力士は沢山いたけれど、現在の幕内には一人もいない。川は抒情的に過ぎるからだろうか、それとも水質汚染のせいで嫌われるのか。しこ名にも、流行があるようだ。(清水哲男)


September 1791999

 添水鳴ると気のつきしより添水鳴る

                           西山 誠

名を「鹿威し(ししおどし)」「ばったんこ」などという「添水(そうず)」の鳴る原理は簡単だが、短い言葉で説明するとなると難しい。辞書に頼る。「一方を削って水がたまるようにした竹筒に水を落とし、その重みで支点の片側が下がり、水が流れ出すとはね返って、他の端が石などを打って音を出す装置」(『現代国語例解辞典』小学館)。元来は田畑を荒らす鳥獣を威す、いわば案山子の音響版であった。ほとんどの歳時記で、案山子の項目の隣に置かれているのは、その故だろう。が、いまでは日本庭園の風流味をかもし出すための小道具的な存在となった。詩仙堂にもあり、苔寺にもある。「添水」の音にかぎらないが、音というのは不思議なもので、規則的に響いている音ほど、耳に入らないことがある。昔はどこの家にもあった柱時計の音もその一つで、深夜目覚めたときなどに、ひとたび気になりだすと眠れなくなったりしたものだ。この句もそういう種類のことを言っていて、風流を感じる心とは別の次元で「添水」をとらえているところが面白い。(清水哲男)




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