「タデ、タデ、ガキツ、……」。戦時中だったか。子供向けラジオドラマの人気挿入歌。




1999ソスN9ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 2491999

 満月や泥酔という父の華

                           佐川啓子

月というと、俳句では仲秋の名月を指す。陰暦八月十五日の月(すなわち、今宵の月だ)。蕪村に「盗人の首領歌よむけふの月」があり、大泥棒までが風流心にとらわれてしまうほどに美しいとされてきた。「けふ(今日)の月」も名月を言う。したがって、名月を賞でる歌は数限りないが、この句は異色だ。名月やら何やらにかこつけては飲み、いつも泥酔していた父。生前はやりきれなく思っていたけれど、今となっては、あれが「父の華(はな)」だったのだと思うようになった。今宵は満月。酔っぱらった父が、なんだか隣の部屋にでもいるようである……。泥酔に華を見るとは、一見奇異にも感じられるが、そうでもあるまい。死者を思い出すというとき、私たちもまた、その人の美点だけをよすがとするわけではないからだ。本音ではむしろ、欠点のほうを微笑しつつ思い返すことのほうが多いのではなかろうか。その意味からして、心あたたまる句だ。ところで、季語の名月には他にも「明月」など様々な言い換えがあり、なかに「三五(さんご)の月」もある。十五は三掛ける五だからという判じ物だが、掛け算を知っていることが洒落に通じる時代もあったということですね。(清水哲男)


September 2391999

 靴提げて廊下を通る鶏頭花

                           北野平八

うかすると、古い飲屋での宴会などで、こういう羽目になる。入り口に下駄箱がなく、部屋の近くまで履物を提げていかなければならない。どうしてなのだか、あれは気分もよくないし、靴を提げている自分が哀れに思えてくる。おまけに、靴というものがこんなにも大きく重いものだとはと、束の間ながら、ますます不快になる。トボトボ、トボトボ。そんな感じで廊下を歩いていくと、廊下添いの庭とも言えぬ庭に生えている真っ赤な鶏頭どもに、まるであざ笑われているかのようだ。鶏頭というくらいで、この花は動物めいた姿をしているので、またそれが癪にさわる。誇張して書いたけれど、こうした些事をつかまえて俳句にできる北野平八の才質を、私は以前から羨ましいと思ってきた。それこそ些事を山ほど書いた虚子にも、こういう句はできない。虚子ならば宴席を詠むのだし、平八は宴席に至る廊下を詠むのである。どちらが優れていると言うのではなく、人の目のつけどころには、天性の才質がからむということだ。虚子の世界は虚子にまかせ、平八のそれは平八にまかせておくしかないのだろう。『北野平八句集』(1987)所収。(清水哲男)


September 2291999

 稲びかり少女は胸を下に寝る

                           加畑吉男

巻は、「胸を下に」という描写の妙にある。単にうつ伏せに寝ているだけなのだが、「胸を下に」と言うことで、少女の身の固さが伝わってくる。でも、少女は稲びかりが恐くて、そんな身の縮め方をしているのではない。このときに、少女は既に眠っているのだ。だから、彼女は稲びかりなど知らないのである。ここに、一種幻想画のようなポエジーが発生する。何も知らずに寝ている少女の寝室の窓に、邪悪な稲びかりが青白く飛び交っている。「胸を下に」の防御の姿勢の、なんと危うく脆く見えることか。はたして、少女の運命や如何に……。とまあ、ここまでバタ臭く読む必要はないと思うが、これから大人の女に成長していく少女の身の上に、思いもよらぬ蹉跌が稲びかりのように訪れるときもあるだろう。そのことを作者は予感したような気になり、「胸を下に」寝る少女の身の固さを愛しく思っている。そしてたぶん、この少女は実在してはいないのだろう。稲びかりのなかで、ふと浮かんだ幻想の少女像なのだと思いたい。そのほうが、少女像はいっそう純化されるからである。助詞の「は」が、そのように読んでほしいと言っている。(清水哲男)




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