2000円札。誰が何のために必要なのか。頼むから、ダジャレで政策決定をしないでくれ。




1999ソスN10ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 07101999

 朝露に手をさしのべて何か摘む

                           大串 章

の庭で、たとえば妻が何かを摘んでいる。そんな姿を垣間見た写生句と理解してもよいだろう。実際に、そのとおりであったのかもしれない。しかし、私はもう少し執念深く、句にへばりついてみる。この「何か」が気になるからだ。「何か」とは、何だろうか。と言って、「何か」が草の花であるとか間引き菜であるとかと、その正体を突き止めたいわけじゃない。そうではなくて、この「何か」が句に占める役割が何かということを考えてみている。つまり作者は、故意に「何か」という言葉を据えた気配があるからだ。草の花や間引き菜に特定すると、句からこぼれ落ちてしまうもの。そういうものをこぼしたくないための「何か」を、作者は求めたにちがいない。そう考えて何度も読んでいるうちに、いつしか浮かび上がってきたのが、人の所作のゆかしさである。その露の玉のような美しさ。特定の誰彼のゆかしさというのではなく、古来私たちの生活に根付いてきた所作のゆかしさ全体を、作者は「何か」という言葉にこめて暗示している。こう読んでみると、小さな日常句がにわかに大きな時空の世界に膨れ上がってくるではないか。「百鳥」(1999年10月号)所載。(清水哲男)


October 06101999

 コスモスの押しよせてゐる厨口

                           清崎敏郎

花にすると可憐な風情のコスモスも、なかなかどうして根性のある花である。その性(さが)は、獰猛(どうもう)とさえ思われるときがある。まるで、誰かさんのように……(笑)。句のごとく、小さな津波のようにどこにでも押しよせてくる。頼みもしないのに、押しかけてくる。句は獰猛を言っているのではないが、逆に可憐を言っているのでもない。その勢いに目を見張りながら、少したじろいでいる。だから、この花は厨口(くりやぐち)など、表からは目立たないところに植えられてきた。いや、植えたとか蒔いたとかということではなく、どこからか種子が風に乗ってきて、自生してしまっていることのほうが多いのかもしれない。一年草だから、花が終わると根を引っこ抜く。この作業がまた大変なのだ。そんな逞しさのせいで、コスモスは徐々に家庭から追い出されている花だとも言えよう。最近の庭では、あまり見かけなくなった。長野県の黒姫高原や宮崎県の生駒高原などが名所だと、モノの本に書いてある。東京では立川の昭和記念公園が新名所で、ここには黄色い品種が群生しているらしい。コスモスも、わざわざ見に出かける花になりつつある。『安房上総』(1964)所収。(清水哲男)


October 05101999

 ひんがしに霧の巨人がよこたわる

                           夏石番矢

ういう句は、丸呑みにしたい。「ひんがし(東)に」とあるから朝霧だと思うが、そんな詮索もせずに丸呑みにしてみて、消化できるかどうかを、しばらく待ってみる。消化できなかったら、吐き出せばよい。句は深い霧に対する作者の印象をストレートに述べているので、なかにはイメージに違和感を覚えて承服しがたい読者がいても当然のことだろう。私は承服したけれど、同様の発想は、童話の世界などではありふれたものである。ただし「ひんがし」と文語的に踏み出したことで、この巨人が日本神話のなかにでも「よこたわる」かのようなイメージを獲得している点に注目しておきたい。番矢のオリジナリティは「ひんがし」の「ん」一文字に発揮されているというわけだ。すなわち「ん」一文字によって、この巨人が西欧の人物ではなく、この国の巨人となった。アア、読売巨人にも、これくらいの摩訶不思議さがあったらなあ(笑)。自分で自分のことを「ミラクル」なんて言ってるようではねえ。『神々のフーガ』(1990)所収。(清水哲男)




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