米で新iMacシリーズ発売。メモリーは64と、あいかわらずAppleの「ケチ」路線は不変だ。




1999ソスN10ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 08101999

 転けし子の考へてをり秋天下

                           上野 泰

さな子供が転んだ(転(こ)けた)。子供は一瞬、自分の身に何が起きたのかわからない。泣きもせず、転んだままの姿勢でじっとしている。作者には、その姿が何かを「考へてを」るように見えている。澄み渡った秋空の下、「考へてを」る子供だけにスポットがあてられ、周辺の景色や音はすべて消されている。大きな青空の下のちっぽけな命。この対比が訴えてくるのは、大人である私たちの命のありようもまた、この小さな子供のそれのようだということである。川崎展宏の鑑賞を引いておく。「カンガエテオリと読んで来る時間のよろしさ、間のよろしさ、秋天(しゅうてん)のもとにこの子だけの居る世界。切ない」。『春潮』(1955)所収。(清水哲男)


October 07101999

 朝露に手をさしのべて何か摘む

                           大串 章

の庭で、たとえば妻が何かを摘んでいる。そんな姿を垣間見た写生句と理解してもよいだろう。実際に、そのとおりであったのかもしれない。しかし、私はもう少し執念深く、句にへばりついてみる。この「何か」が気になるからだ。「何か」とは、何だろうか。と言って、「何か」が草の花であるとか間引き菜であるとかと、その正体を突き止めたいわけじゃない。そうではなくて、この「何か」が句に占める役割が何かということを考えてみている。つまり作者は、故意に「何か」という言葉を据えた気配があるからだ。草の花や間引き菜に特定すると、句からこぼれ落ちてしまうもの。そういうものをこぼしたくないための「何か」を、作者は求めたにちがいない。そう考えて何度も読んでいるうちに、いつしか浮かび上がってきたのが、人の所作のゆかしさである。その露の玉のような美しさ。特定の誰彼のゆかしさというのではなく、古来私たちの生活に根付いてきた所作のゆかしさ全体を、作者は「何か」という言葉にこめて暗示している。こう読んでみると、小さな日常句がにわかに大きな時空の世界に膨れ上がってくるではないか。「百鳥」(1999年10月号)所載。(清水哲男)


October 06101999

 コスモスの押しよせてゐる厨口

                           清崎敏郎

花にすると可憐な風情のコスモスも、なかなかどうして根性のある花である。その性(さが)は、獰猛(どうもう)とさえ思われるときがある。まるで、誰かさんのように……(笑)。句のごとく、小さな津波のようにどこにでも押しよせてくる。頼みもしないのに、押しかけてくる。句は獰猛を言っているのではないが、逆に可憐を言っているのでもない。その勢いに目を見張りながら、少したじろいでいる。だから、この花は厨口(くりやぐち)など、表からは目立たないところに植えられてきた。いや、植えたとか蒔いたとかということではなく、どこからか種子が風に乗ってきて、自生してしまっていることのほうが多いのかもしれない。一年草だから、花が終わると根を引っこ抜く。この作業がまた大変なのだ。そんな逞しさのせいで、コスモスは徐々に家庭から追い出されている花だとも言えよう。最近の庭では、あまり見かけなくなった。長野県の黒姫高原や宮崎県の生駒高原などが名所だと、モノの本に書いてある。東京では立川の昭和記念公園が新名所で、ここには黄色い品種が群生しているらしい。コスモスも、わざわざ見に出かける花になりつつある。『安房上総』(1964)所収。(清水哲男)




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