暑さつづきの東京。長袖を着るべきか、それが問題の毎日だ。ちゃんと冬は来るのかなア。




1999ソスN10ソスソス13ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 13101999

 老い母は噂の泉柿の秋

                           草間時彦

が実るのは秋にきまっているが、あえて「柿の秋」としたのは、たわわに実る柿の姿を強調したかったのだと思う。「泉」と照応して、おのずと自然の豊穣な雰囲気が出ている。ただ、豊穣といっても、この場合は噂話しのそれだ。老いた母が、泉の水のようにとめどなくくり出してくる他人の噂。老いても元気なのはなによりだけれど、聞かされる身としては、いささか辟易しているという図だろう。「柿の秋」ならぬ「噂の秋」だ。女性一般の噂話し好きは、いったい、どこから来るものなのか。むろん例外の女性もいるが、総じて女性はぺちゃくちゃと他人の動静についてしゃべることを好む。それこそ「泉」だとしか言いようのない人もいる。私などがじっと聞いていると、究極のところ、彼女は自分のする噂話しを自分自身に言い聞かせているような気がしてくる。聞いてくれる他人を媒介にして、自己説得しているように思えてくるのだ。となると、彼女にとっての噂話しとは、いわばアイデンティティを確認するための生活の知恵なのだろうか。このあたりのことを考えてみるのも面白そうだが、そんなヒマはない。『中年』(1965)所収。(清水哲男)


October 12101999

 赤き帆とゆく秋風の袂かな

                           原 裕

書に「土浦二句」とある。もう一句は「雁渡るひかり帆綱は鋼綱」。いずれも秋の湖辺(霞ヶ浦)の爽やかさを詠んでいて、心地よい。「赤き帆」は、彼方をゆくヨットのそれだろう。秋風を受けた帆のふくらみと袂(たもと)のふくらみとを掛けて、まるで自分がヨットにでもなったような気分。上機嫌で、湖べりの道を歩いている。読者に、すっと伝染する良質な機嫌のよさだ。遠くの帆の赤が、ひときわ鮮やかだ。恥ずかしながら私の俳号は「赤帆(せきはん)」なので、この句を見つけたときは嬉しかった。二句目と合わせて読むと、秋色と秋光のまばゆい土浦(茨城)の風土が、見事に浮かび上がってくる。作者にはこの他にも「色彩」と「光線」に鋭敏な感覚を示した佳句が多く、この季節では「紫は衣桁に昏し秋の寺」などが代表的な作品だろう。この「紫色」の重厚な深みのほどには、唸らされてしまう。作者・原裕(はら・ゆたか)は原石鼎(はら・せきてい)の後継者として長く「鹿火屋」の主宰者であったが、この十月二日に亡くなられた。享年六十七歳。今日が告別式と聞く。合掌。『風土』(1990)所収。(清水哲男)


October 11101999

 門の内掛稲ありて写真撮る

                           高浜虚子

のある農家だから、豪農の部類だろう。普通の屋敷に入る感覚で門をくぐると、庭には掛稲(かけいね)があった。虚をつかれた感じ。早速、写真に撮った。それだけの句だが、作られたのが1943(昭和18)年十月ということになると、ちょっと考えてしまう。写真を撮ったのは、作者本人なのだろうか。現代であれば、そうに決まっている。が、当時のカメラの普及度は低かった。しかも、ハンディなカメラは少なかった。そのころ私の父が写真に凝っていて、我が家にはドイツ製の16ミリ・スチール写真機があったけれど、よほどの好事家でないと、そういうものは持っていなかったろう。しかも、戦争中だ。カメラはあったにしても、フィルムが手に入りにくかった。簡単に、スナップ撮影というわけにはいかない情況だ。虚子がカメラ好きだったかどうかは知らないが、この場面で写真を撮ったのは、同行の誰か、たとえば新聞記者だったりした可能性のほうが高いと思う。で、虚子は掛稲とともに写真におさまった……。すなわち「写真撮る」とは、写真に「撮られる」ことだったのであり、いまでも免許証用の「写真(を)撮る」という具合に使い、この言葉のニュアンスは生きている。「撮る」とは「撮られる」こと。自分が撮ったことを明確に表現するためには、「写真撮る」ではなく「写真に(!)撮る」と言う必要がある。ああ、ややこしい。『六百句』(1946)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます