しまった、セーターを持っていけばよかった。仙台の夜は寒かった。急な冷え込みだという。




1999ソスN10ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 18101999

 鴨すべて東へ泳ぐ何かある

                           森田 峠

べての鴨が、いっせいに同じ方角に泳いでいく。そういうことが、実際にあるのだろうか。あるとしたら壮観でもあるし、たしかに「何かある」と思ってしまうだろう。群集心理。野次馬根性。はたまた付和雷同性。そうした人間臭さを、鴨にも感じているところが面白い。作者には、この句以前に「ねんねこの主婦ら集まる何かある」があり、これまた面白い。こちらのほうは、たしかに「何かある」から集まっているのだ。その「何か」が知りたい。作者は「鴨」よりも「主婦」よりも、このときに野次馬根性を発揮している。両句のミソは「何かある」だが、この表現は作者の特許言語みたいなものだろう。誰にでも使える言葉であり、使いたい誘惑にもかられるが、使って句作してみると、なんだか自分の句ではないような気がしてしまう。俳句では他にも、こんな特許言葉が多い。たまに起きる盗作問題も、多くは特許言語に関わってのそれだ。なお、単に「鴨」といえば冬の季語。この時季には「初鴨」や「鴨来る」が用意されている。そんなに厳密に分類するのも可笑しな話だけれど、一応そういうことになっているので。『逆瀬川』(1986)所収。(清水哲男)


October 17101999

 広瀬川胡桃流るる頃に来ぬ

                           山口青邨

桃(くるみ)は山野の川辺に生えているので、実が川に流れているのは普通の光景なのだろう。私は見たことがないけれど。地味な色の胡桃が川に見えるというのだから、水の清らかさを歌った句だ。澄んだ川水を讃えることで、広瀬川の流れる土地に挨拶を送っている。旅行者としての礼儀である。ところで「広瀬川」というと、あなたはどこの川を連想されるだろうか。詩の好きな読者なら、萩原朔太郎の「広瀬川白く流れたり」(詩集『郷土望景詩』所収)の一行から、前橋市のそれを思われるかもしれない。が、句の広瀬川は仙台の川だ。仙台市の西と北の丘陵地から東の田園地帯へと流れている。「青葉城恋歌」にも登場してくるのが、こちらの広瀬川。ややこしいけれど、違う川を連想したのでは、句味がまったく異なってしまう。「隅田川」や「セーヌ川」なら混乱は起きないにしても、俳句に地名や固有名詞を詠み込む難しさを感じざるを得ない。同時に、俳句が身内やその土地のなかで成立してきた内々の詩型であることについても……。今日の私は仙台にいる。広瀬川を眺めてから、帰京するとしよう。(清水哲男)


October 16101999

 じゅず玉は今も星色農馬絶ゆ

                           北原志満子

ゅず玉(数珠玉)と農馬(農耕馬)が結びつくのは、この草が水辺に自生する植物だからである。「馬洗ふ」という夏の季語もあるように、農耕に疲れた馬を川や湖で洗って疲労を回復させてやるのが、夕暮れ時の農家の日課であった。馬の行水だ。そんな光景のなかでは、いつも数珠玉が群生して揺れていた。なのに現在では農作業の機械化がいちじるしく進み、もはや農耕馬が存在したことすらも忘れられかけている。一方の数珠玉はといえば、昔と変らず秋風に揺れているというのに……。「星色」とは、数珠玉の実が緑色から灰白色(ないしは黒色)に変わっていく途中の色を指したのだろう。少年時代、私の村にも十数頭の農馬がいた。だから、行水の光景にも親しかったし、作者の思いもよくわかる。で、秋の農繁期が終わると、これらの馬を集めて競馬が行われた。文字どおりの「草競馬」だった。日頃激しい労働はしていても、走るトレーニングなどしたこともない馬たちのレースは、子供心にもなんだか哀れに思えたものだ。馬力はあっても、脚が出ないのだ。句を読んで、ふとそんなことも思い出してしまった。ちょっぴり泣けてきた。『北原志満子』(1996・花神現代俳句シリーズ)所収。(清水哲男)




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