日産よ、お前もか。資本は自己の延命のために人間を犠牲にする。労組は何をしていたのか。




1999ソスN10ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 20101999

 うそ寒きラヂオや麺麭を焦がしけり

                           石田波郷

麭は食用の「パン」のこと。ちなみに、麺麭の「麺(めん)」は小麦粉のことであり、「麭(ほう)」は粉餅の意である。なるほど、考えられた当て字だとは思うが、難しい表記だ。さて、何となく寒い感じになってきた朝、作者はいつものようにパンを焼いている。習慣でつけているラジオの音も、今朝は何となく寒そうに聞こえてくる。昔のラヂオ(ラジオ)は茶の間の高いところなどに置いてあったから、台所からではよく聞こえない。そんなラジオに束の間、作者は聞き耳を立てていたのだろう。パンに心が戻ったときには、焦がしてしまっていた……。いまのトースターのように、焼き上がる時間をセットできなかったころの哀話(笑)だ。そこで作者は、うかつな失敗を犯した自分にちょっぴり腹を立てているわけだが、それが「うそ寒」い気持ちを倍加させている。ラジオの放送の中身も大したことはなかったようで、「うそ寒きラヂオ」という表現になった。肌身に感じる寒さにとどまらず、心のうそ寒さまでをも言い止めた句だ。寒いと言えば「嘘」になる「うそ寒さ」。と言うのは「真っ赤な嘘」(笑)で、本意は「薄寒さ」。客観的な「秋寒」などよりも、心理的な色彩の濃い言葉だ。こんな表現は、外国語にはないだろうな。(清水哲男)


October 19101999

 芋煮会阿蘇の噴煙夜も見ゆる

                           鈴木厚子

年度俳句研究賞受賞作「鹿笛」五十句のうち。芋煮会の本家は山形県や宮城県、そして福島県の会津地方だが、最近では全国的に行われるようになった。東京でも多摩川などにくり出す人々がいて、定着しつつある。こちらは九州というわけだが、阿蘇の噴煙を背景にしての大鍋囲みは、さぞかし気宇壮大な気分になることだろう。昼間の阿蘇をバックに芋煮会の写真を撮って、それをネガで見ると、句の視覚的理解が得られる。そこには噴煙をあげる阿蘇の雄大さが強調されているはずで、人の昼間の営みは幻のようにぼんやりとしている。夜も働く自然の圧倒的な力が、句のテーマである。ところで芋煮会の「芋」は「里芋」だ。俳句でも「芋」といえば「里芋」を指してきたが、今日「芋」と聞いて「里芋」を連想する人がどれほどいるだろうか。たまたまこの句の掲載された雑誌に、宇多喜代子が「いも」という一文を寄せている。ある集まりで「いも」と言って何芋を思い出すかというアンケートをとったところ、「サツマイモ」と「ジャガイモ」と答えた人がほとんどだったそうだ。となると、これから「芋」を詠むときには、それが「里芋」であることを指し示すサインを出しておく必要がありそうだ。「俳句研究」(1999年11月号)所載。(清水哲男)


October 18101999

 鴨すべて東へ泳ぐ何かある

                           森田 峠

べての鴨が、いっせいに同じ方角に泳いでいく。そういうことが、実際にあるのだろうか。あるとしたら壮観でもあるし、たしかに「何かある」と思ってしまうだろう。群集心理。野次馬根性。はたまた付和雷同性。そうした人間臭さを、鴨にも感じているところが面白い。作者には、この句以前に「ねんねこの主婦ら集まる何かある」があり、これまた面白い。こちらのほうは、たしかに「何かある」から集まっているのだ。その「何か」が知りたい。作者は「鴨」よりも「主婦」よりも、このときに野次馬根性を発揮している。両句のミソは「何かある」だが、この表現は作者の特許言語みたいなものだろう。誰にでも使える言葉であり、使いたい誘惑にもかられるが、使って句作してみると、なんだか自分の句ではないような気がしてしまう。俳句では他にも、こんな特許言葉が多い。たまに起きる盗作問題も、多くは特許言語に関わってのそれだ。なお、単に「鴨」といえば冬の季語。この時季には「初鴨」や「鴨来る」が用意されている。そんなに厳密に分類するのも可笑しな話だけれど、一応そういうことになっているので。『逆瀬川』(1986)所収。(清水哲男)




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