横浜ランドマークタワーという恐ろしい名前のところで「北村太郎の会」。しかも、13階。




1999ソスN10ソスソス30ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 30101999

 水のなき湖を囲へる山紅葉

                           深谷雄大

者は旭川市在住。前書に「風連望湖台吟行」とある。「風連望湖台」とは、どこだろうか。北海道には無知の私だから、早速ネット検索で調べてみた。と、「北海道マイナー観光地ガイド」というページが出てきて、名寄市近郊であることがわかった。いわゆる上川地方だ。札幌からは、高速道路を使えば車で3時間10分ほどで行けるとある。「風連(ふうれん)望湖台自然公園」という水郷公園になっていて、見える湖は「中烈布湖」であることまでは判明した。が、後の情報は希薄で、湖の説明もなければ、読み方も書いてない。はなはだ不親切。「マイナー」だからこそ、きちんと説明すべきなのに……。そんなわけで、句が生まれた環境はわからない。それでも私が魅かれたのは、水のない湖(うみ)を囲む紅葉という構図そのものに、作者のリリカルなセンスのよさを感じたからだ。この句は自然に私を、我が青春の愛唱歌である塚本邦雄の「みづうみにみづありし日の恋唄をまことしやかに弾くギタリスト」(愛唱歌と言いながら表記はうろ覚え。いずれ訂正します)に導いてくれた。塚本歌がフィクションであるという差はあるが、センスのよさという意味では、両者に隔たりはないだろう。『端座』(1999)所収。(清水哲男)


October 29101999

 蒲団着て先ず在り在りと在る手足

                           三橋敏雄

しかに、この通りだ。他の季節だと、寝るときに手足を意識することもないが、寒くなってくると、手足がちょっと蒲団からはみだしていても気になる。亀のように、手足を引っ込めたりする。まさに「在り在りと在る手足」だ。それに「在」という漢字のつらなりが、実によく利いている。例えば「ありありと在る」とやったのでは、つまらない。蒲団の句でもっとも有名なのは、服部嵐雪の「蒲団着てねたるすがたやひがし山」だろう。このように、蒲団というと「ねたるすがた」は多く詠まれてきているが、自分が蒲団に入ったときの句は珍しいと言える。ま、考えてみれば当たり前の話で、完全に寝てしまったら、句もへちまもないからである。ところで、蒲団を「着る」という表現。私は「かける」と言い、ほとんど「着る」は使ったことがない。もとより「着る」のほうが古来用いられてきた表現だけれど、好みの問題だろうが、どうも馴染めないでいる。「帽子を着る」「足袋を着る」についても、同様だ。もっと馴染めないのは英語の「wear」で、髪飾りの「リボンをwearする」にいたっては、とてもついていけない。『畳の上』(1988)所収。(清水哲男)


October 28101999

 殺される女口あけ菊人形

                           木村杢来

居の一場面を菊人形に仕立ててあるわけだが、殺される女の口が開きっぱなしなのが、ひどく気になったというのである。凄絶なシーンのはずが、開いた口のせいで痴呆的にすら感じられる……。そこが、人形的なあまりに人形的な切なさではある。漱石の『三四郎』に団子坂(東京千駄木)の菊人形が出てくる。「どんちゃんどんちゃん遠くから囃している」とあり、明治末期の菊人形は秋最大級の見せ物として人気があったようだ。私に言わせれば、菊と人形の組み合わせなどゲテモノにしか見えないけれど、ゲテモノは見せ物の基本だから、あって悪いとは思わないが好きではない。渡辺水巴などは、真面目につきあって「菊人形たましひのなき匂かな」と詠んでいる。そういう気にもなれない。どうせ詠むのなら、大串章のように「白砂に菊人形の首を置く」と、楽屋を詠むほうが面白い。ドキリとさせられる。私とは違って、大串章は菊人形に好意をもっての作句だろうが、このシーンを描くことで見せ物の本質はおのずから描破されている。先日、菊作りの専門家に聞いたら、今年は中秋までの暑さがたたって仕上がりが遅いそうだ。菊人形展や菊花展の関係者は、さぞや気をもんでいることだろう。(清水哲男)




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