1999N11句

November 01111999

 隅占めてうどんの箸を割損ず

                           林田紀音夫

阪は下村槐太門の逸材と喧伝された作者は、なによりも「叮嚀でひかえめでものしづか」(島津亮)な人だったという。そういう人柄だから、数人でうどん屋に入っても、必ず隅の席にすわりたい。人と人に挟まれてうどんを食べるなどは、どうにも居心地がよろしくないのである。でも、いつも隅の席を占められるとは限らない。酒席の流れだろうか。今宵は無事に隅にすわれた。やれやれと安堵し、そこまではよかったのだが、運ばれてきたうどんを食べようという段になって、割り箸が妙な形に割れてしまった。折れたのかもしれないが、とにかく、これでは食べられないという状態になった。そこで「ひかえめでものしづか」な人は、大いにうろたえることになる。店員に声をかけようとしても、忙しく立ち働く彼らを見ていると、なんだか気後れがする。でも、思いきって声をかけてみたが、相手には聞こえないようだ。しかし、何とかしなければ、せっかくのアツアツうどんがのびてしまうではないか。周りの連中は、彼の困惑に気がつかず、うまそうに食べている。当人が真剣であればあるほど、滑稽の度は増してくる。そのあたりの人情の機微を巧みにとらえた作品だ。無季の句ではあるが、だんだん寒くなるこの季節に似合っている。(清水哲男)


November 02111999

 栗剥くは上手所帯は崩しても

                           小沢信男

の剥(む)き方は、あれでなかなか難しい。剥いているのは女性だろう。それも、小さな飲屋の「おかみ」というところか。客の前で生の栗を剥くはずはないから、茹でた栗か焼き栗かを、実に器用に剥いている。剥きながら、問わず語りに過去の不幸を語っているのかもしれない。栗を上手に剥くことと所帯をうまくやっていくことの間には、さしたる関係もないのであるが、作者はいささかの好意をもっている女性だけに、その関係を濃いものとしてとらえている。こんなに器用なのだから家事全般については、何の落ち度もなかったろうに……。人生はうまくいかないものだなア、と。このとき「所帯は崩しても」に皮肉の意図はなく、哀感を強調するための用語法である。大きな「所帯」と小さな「栗」との対比が利いている。彼女が所帯を崩すには、もとよりそれなりの事情があったのだろうが、そこまでを直接尋ねるわけにはいかない。たいていの身の上話は、どこかに曖昧な要素を残しながら終わってしまうものだ。それでいいのである。小津映画の一シーンのような句だとも思った。『足の裏』(1998)所収。(清水哲男)


November 03111999

 酒さめて去る紅葉谷一列に

                           島 将五

葉狩りのシーズンだ。今日あたりも、出かける人が多いだろう。ただし、行楽に出かけていくのはよい気分だけれど、帰りがこうなるので、酒飲みは困る。明るい日ざしのなかで紅葉を愛でながら、仕事を忘れ時間を忘れて飲む酒は、たしかにうまい。でも、そのうちに日が西に傾いてきて、幹事役が「そろそろ下りないと暗くなってしまうぞ、なにしろ秋の日は釣瓶落しだからな」などとみんなをうながし、しぶしぶ腰を上げることになる。そんな頃には、もうだいぶ気温も下がってきて、せっかくの酒もすぐにさめてしまう。後は、谷あいの細道を吹く秋風が身にしみるだけ。「一列に」という表現が、酒飲みのじくじたる心持ちをよく告げている。あと、どのくらい歩けばよいのだろう。そんなことばかりを思ってしまう。とにかく、いつだって帰り道とは遠いものである。みなさん、御苦労なこってすなア。……と、これは今日も仕事でどこにも出かけられない私の負け惜しみ(笑)だ。『萍水』(1981)所収。(清水哲男)


November 04111999

 秋のくれ大政通るその肩幅

                           入江亮太郎

書に「文久生れの祖母云、大政さんといふ人はなう肩はばの広い人でなう」とある。「大政(おおまさ)さん」とは実在の人物。清水次郎長一家二十八人衆のうちの一の子分で、怪力無双の槍の使い手であった。広沢虎造の浪曲に「清水港は鬼より恐い、大政小政の声がする」とうたわれている。昔の駿河の人はみな、次郎長はもとより主だった子分にいたるまでを、彼女のように必ず「さん」づけで呼んでいたという。決して、呼び捨てにはしなかった。人気のほどがうかがえるが、それも単なる博打うちを脱した次郎長晩年の社会的功績によるものだろう。清水姓の私は、子供の頃から次郎長一家が好きだった。といっても浪曲や映画の世界のなかでの贔屓であるが、森の石松が都鳥三兄弟に騙し討ちにされるシーンなど、涙無しには見ていられなかった。だから、作者のおばあさんのように実際の大政を見たことがあるというだけで、その人を尊敬してしまう。そうか、肩幅の広い人だったのか。でも、背は高くなかったろうな。高ければ、彼女はまずそのことを言ったはずだから……。句はそっちのけで、そんな大政の姿を想像してしまった。大政の墓は清水市の梅蔭寺(ばいいんじ)にあり、親分の次郎長を守るようにして小政らと眠っている。『入江亮太郎・小裕句集』(1997)所収。(清水哲男)


November 05111999

 何やらがもげて悲しき熊手かな

                           高浜虚子

日は十一月最初の酉(とり)の日で、一の酉。十一月の酉の日は、鳳(大鳥)神社を中心とした祭礼日だ。江戸中期からはじまった富貴開運のお祭りで、台東区千束の鳳神社をはじめ、各神社が大勢の人出でにぎわう。したがって、東京以外の方には馴染みがないだろう。私も、京都にいた頃は知らなかった。大阪でいえば、十日戎といったところか。境内には市が立ち、熊手、おかめの面、入り船、黄金餅などの縁起物が売られる。「熊手」は熊の手を模した福徳をかきあつめる意味の竹製のもので、小さなおかめの面や大判小判、酒桝やら七福神やらがごちゃごちゃと取り付けられており、私のようなごちゃごちゃ好きな人間にとっては、見ているだけで楽しい。虚子は、そのごちゃごちゃの何かが「もげて」しまったと言っている。一瞬もげたのはわかったのだが、なにせ押すな押すなの人込みの中だ。拾うこともかなわず、ごちゃごちゃのなかの何がもげたのかもわからない。とにかく、とても損をしたような気分になったのだ。面白い着眼であり、大の男の悲しい気持ちもよくわかる。ちなみに今年は三の酉まであって、三の酉まである年は火事が多いと言い伝えられてきた。御用心。(清水哲男)


November 06111999

 竜胆の花暗きまで濃かりけり

                           殿村菟絲子

胆(りんどう)は、根を噛むと非常に苦いので、竜の肝のようだということから命名されたようだ。日のあたるときにだけ開き、雨天のときや夜間は閉じてしまう。句は、閉じてもなお自分の色を失わぬ竜胆の花に、気丈な性質を見てとっているのだろう。もちろん、同時に花色の鮮やかさを賞賛している。この花はちょっと見には可憐だが、なかなかどうして、茎といい葉といい花といい、芯の強い印象は相当なものである。私はいつも、気の強い女性を連想させられてしまう。『枕草子』にも、こうある。「龍膽は、枝ざしなどもむつかしけれど、こと花どものみな霜枯れたるに、いとはなやかなる色あひにてさし出でたる、いとをかし」。繁殖させようとすると意のままにならないが、自然体だと寒くなっても凛として美々しく咲いていると言うのである。清少納言と私の感受性はよく食い違うけれど、こと竜胆に関しては一致した。いまどきの花屋の店先には、初秋を待たずに切花として登場してくるが、あの色はいけない。野生の花にくらべると、深みがない。竜胆もまた、やはり野においておくべき草花である。(清水哲男)


November 07111999

 銀杏黄葉大阪馴染なく歩む

                           宮本幸二

杏黄葉(いちょうもみじ)は、この四文字で一つの季語。他にも「葡萄紅葉」「雑木紅葉」など、同じ「もみじ」でも、いくつか特別扱いの「もみじ」季語がある。ところで、一般的に「もみじ」ないしは「こうよう」を「紅葉」と表記するようになったのは平安時代以降のことで、それまでは「黄葉」と書くのがが普通だったという。ちなみに、Macintosh添付のワープロで「もみじ」と打つと「紅葉」としか出てこない。あなたのワープロ辞書ではどうですか。句の舞台は、晩秋の大阪の街。おそらく、梅田から難波に通じる御堂筋だろう。ビジネス街だから、作者は出張で出かけたのだ。仕事もすんで御堂筋を大阪駅に向かって歩いている。馴染みのない街を歩くのは所在ないもので、街全体が無表情に見える。延々とつづく銀杏並木の黄葉は風情を誘うどころか、かえって街をより抽象化しているようだ。私も、サラリーマン時代に何度か出張を経験したが、好きではなかった。とくに一泊して帰る日が休日だと、朝方のビジネス街の人影はまばらだし、なぜ俺はこんなところを歩いているのかと無性に腹立たしかった。(清水哲男)


November 08111999

 山の子が独楽をつくるよ冬が来る

                           橋本多佳子

楽は新年の季語だが、ここでは「冬が来る」のだから「立冬」に分類する。文字どおりの「山の子」であった私には、思い当たる句だ。山国への寒さの訪れは早い。いかな「山の子」でも、この季節になると山野を駆けめぐるなどの遊びはしなくなる。遊び場を、室内に切り替えるのだ。女の子はお手玉遊びをやっていたようだが、男の子は独楽回しに熱中した。農家には土間がある。そこで回す。村の万屋(よろずや)には出来合いの独楽も売ってはいたけれど、誰も買わなかった。もっと安い鉄の心棒と輪だけのセットを買ってきて、本体は小刀で丹念に木を削って作った。仕上げるのには、何日もかかった。ただし、作者が見たのはもっと素朴な独楽づくりの様子だったのかもしれない。木の実に爪楊枝のような細い木をさすものとか、丸い厚紙にマッチ棒の心棒をさすだけのものとか……。そういうものも作ったが、やはり鉄の心棒と輪とで作った独楽は頑丈だったし、互いにはねとばしあう遊びもできたので、なんだか知らないが「ホンカクテキ」だと思っていた。おかげで、いまでも独楽はちゃんと回せる。もはや、淋しい技術に成り果ててはいるけれど。(清水哲男)


November 09111999

 推理小説りんごの芯に行き当たる

                           小枝恵美子

理小説は「行き当たる」楽しさを求めて読む読み物だ。複雑に設定された謎を、作家に導かれながら解いていく楽しみは、夜長の季節にこそふさわしい。句の作者は、林檎を齧りながら、そんな本のページに心を奪われている。夢中になって読みふけっているうちに、あろうことかガリッと「行き当たった」のは、作中の犯人にではなく、林檎の芯だったという苦い可笑しさ。いや、酸っぱい可笑しさ。びっくりして、思わず手にした林檎の様子を見つめている作者の顔が見えるようである。伝統的な「花鳥諷詠」とは懸け離れた次元で、俳句はかくのごとくに現代生活の機微を表現できるという見本にしたいような作品だ。作者は俳誌「船団」(大阪)のメンバーで、他にも「ケンタッキーのおじさんのような菊花展」「りんご剥くクレヨンしんちゃん舌を出す」などの愉快な句がある。俳句をはじめてまだ六年だそうだが、この自由闊達な詠みぶりからして、今後のそれこそ「行き当たる」ところの愉しみな人だ。『ポケット』(1999)所収。(清水哲男)


November 10111999

 七十や釣瓶落しの離婚沙汰

                           文挟夫佐恵

齢者の離婚が増えてきたという。定年退職したとたんに、妻から言い出されて困惑する夫。そんな話が、雑誌などに出ている。誰にとってもまったくの他人事ではないけれど、句の場合は他人事だろう。ちょっと突き放した詠みぶりから、そのことがうかがえる。身近な友人知己に起きた話だろうか。若いカップルとは違って、高齢者の離婚は精神的なもつれの度合いが希薄だから、話は早い。井戸のなかにまっすぐ落下してゆく釣瓶のように、あっという間に離婚が成立してしまう。作者は、半ば呆れ半ば感心しながら、自身の七十歳という年令をあらためて感じているのだ。そういえば、事は「離婚沙汰」に限らず、年輪が事態を簡単に解決してしまう可能性の高さに驚いてもおり、他方では淋しくも思っている。最近必要があって、老人向けに書かれた本をまとめて読んだ。五十代くらいの著者だと、こうした心境にはとうてい思いがいたらないわけで、趣味を持てだの友人を作れだのという提言も、空しくも馬鹿げた物言いにしか写らなかった。なお、作者名は「ふばさみ・ふさえ」と読む。『時の彼方』(1997)所収。(清水哲男)


November 11111999

 枯枝に烏のとまりたるや秋の暮

                           松尾芭蕉

れっ、どこか違うな。そう思われた読者も多いと思う。よく知られているのは「かれ朶に烏のとまりけり秋の暮」という句のほうだから……(「朶」は「えだ」)。実は掲句が初案で、この句は後に芭蕉が改作したものだ。もとより推敲改作は作者の勝手ではあるとしても、芭蕉の場合には「改悪」が多いので困ってしまう。このケースなどが典型的で、若き日の句を無理矢理に「蕉風」に整えようとしたために、活気のない、つまらない句になっている。上掲の初案のほうがよほどよいのに、惜しいことをする人だ。「とまりたるや」は、これぞ「秋の暮」を象徴するシーンではないか。「ねえ、みなさんもそう思うでしょ」という作者の呼びかける声が伝わってくる。それがオツに澄ました「とまりけり」では、安物のカレンダーの水墨画みたいに貧相だ。私の持論だが、表現は時の勢いで成立するのだから、後に省みてどうであろうが、それでよしとしたほうがよい。生涯の表現物をきれいに化粧しなおすような行為は、大袈裟ではなく、みずからの人間性への冒涜ではあるまいか。飯島耕一が初期の芭蕉を面白いと言うのも、このあたりに関係がありそうだ。「エエカッコシイ」の芭蕉は好きじゃない。(清水哲男)


November 12111999

 どぶろくの酔ひ焼鳥ももう翔ぶころ

                           園田夢蒼花

語は「どぶろく(濁り酒)」。新米を炊いて作ることから、秋の季語とされてきた。多くは密造酒なので、酒飲みには独特の情趣が感じられる季題だ。後ろめたさ半分、好奇心半分で、私も何度か飲んだことはある。当たり外れがあり、すぐに酸っぱくなるのが欠点だ。ところで、作者はまことに上機嫌。焼いている雀か何かが間もなく飛翔するかに見えるというのだから、快調な酔い心地だ。この場に下戸がいたとすると、冷たい目で「だから、酒飲みは嫌いだよ」と言われそうなほどに酩酊している。私も飲み助のはしくれだけれど、大人になってから(!?)は、こんなふうに天衣無縫に酔えたことは一度もない。どうしても、どこかで自制の心が働いてしまうのだ。山口瞳の言った「編集者の酒」の癖が、すっかり身に染みついてしまっているからだろう。作者が、うらやましい。でも、子供のころ(!?)には、この人みたいに酔ったことはある。気がつくと、深夜の道ばたで寝ていた。なんだかヤケに顔が冷たいなと思ったら、雪が降っているのだった。PR誌「味の味」(1999年11月号)所載。(清水哲男)


November 13111999

 藁屋根に鶏鳴く柿の落葉かな

                           寺田寅彦

者は物理学者、随筆家。漱石『三四郎』の登場人物・野々宮宗八のモデルとしても有名だ。さすがに科学者らしく、寅彦の句作姿勢は理論的であった。すなわち「俳句はカッテングの芸術であり、モンタージュの芸術である」と。森羅万象のなかから何を如何に切り取り、それを十七文字のなかに如何に巧みに配置するのか。そういう方法で成立する「芸術」だと言っている。俳句はロシアの映画監督・エイゼンシュテイン(『戦艦ポチョムキン』など)の映像技術に影響を与えたが、寅彦の理論とぴったり符合する。見られる句と同じように、他の寅彦作品でも、心情や感情を生で吐露したものはない。徹底的に「カッテング」と「モンタージュ」を繰り返しながら、自分なりの小宇宙を作り上げようとした。掲句も、きわめて映像的な趣を持っている。「鶏鳴」と「柿落葉」の取り合わせ。モンタージュ的にはいささか付き過ぎの感もあるけれど、往時の光景はよく見えてくる。ちなみに、作句は1900年の晩秋だ。前世紀末のこの国の日常的な光景のスナップである。とくに草深い田舎の光景ということではないだろう。『寺田寅彦全集』(1961・岩波書店)所収。(清水哲男)


November 14111999

 穴惑ひ生きる日溜まりやはりなし

                           つぶやく堂やんま

語は「穴惑ひ(あなまどい)」。冬眠すべく仲間はほとんど穴に入ってしまったのに、いつまでも地上を徘徊している蛇のことだ。それこそ「蛇蝎(だかつ)」のように蛇を嫌う人は多いが、しかし、このような季語が存在するのは、日本人にとっての蛇が極めて身近な生物であったことの証明である。嫌いだけれど、とても気になる生き物だったのだ。暖かいからといって、まだうろうろしている姿に馬鹿な奴だと苦笑しつつも、他方では少し心配にもなっている。句は逆にそんな蛇の気持ちを代弁しており、実は馬鹿なのではなく、必死に地上生活を望んでいるのだが、ついに果たせないあきらめを描いていて秀逸だ。「やはり」と言う孤独なつぶやきはまた、ついに夢を果たせない私たちのつぶやきでもある。深刻になりがちな世界を、さらりと言い捨てた軽妙さもなかなかのものだ。地味だが、とても味わい深い。再来年21世紀の初頭は「巳年」である。大いなる「穴惑ひ」の世紀になるような気がする。そのときには、誰かがきっとこの句を思い出すだろう。『ぼんやりと』(1998)所収。(清水哲男)


November 15111999

 院長のうしろ姿や吊し柿

                           大木あまり

立ての妙。そして、人間の不可解な感情のありどころ。院長は、病院の院長だろう。病院で院長が登場するとなれば、多くの場合、患者の家族に対しての深刻な話があるときと決まっているようなものだ。話し終わった院長が「そういうわけですから、よくお考えになって……」と席を立ち、くるりと後ろを向いた。目を上げた作者は、とたんになぜか「あっ、吊し柿に似ている」と思ってしまった。彼の話の中身はやはり深刻なもので、作者はうちひしがれた気持ちになっているのだが、「吊し柿」みたいと可笑しくなってしまったことも事実なのだし、その不思議をそのまま正直に書きつけた句だ。こういうことは、誰の身にも起きる。葬儀の最中に、クスクス笑いがこみあげてくることもある。不謹慎と思うと、なおさら止まらない。あれはいったい、何なのだろうか。どういう感情のメカニズムによるものなのか。そして、古来「吊し柿(干柿)」の句は数あれど、人の姿に見立てた句に出会ったのははじめてだ。読んでからいろいろと想像して、この院長は好きになれそうな人だと思った。もちろん、作者についても。『雲の塔』(1994)所収。(清水哲男)


November 16111999

 隣席を一切無視し毛糸編む

                           右城暮石

者は、明らかに「むっ」としている。「隣席」というのだから、電車のなかだろう。たまたま坐った隣席の女性が、一心に毛糸を編んでいる。一心はよろしいが、電車が揺れるたびに、編み棒やら毛糸玉やらがこちらの領域を侵蝕してくる。気になって仕方がない。明治生れ(明治32年)の作者の気持ちを現代語に翻訳しておけば、「チョーむかつく」というところか。最近はあまり見かけないけれど、昔は電車のなかでの編み物は珍しくなかった。隣り合わせてしまったら、あれは災難としか言いようがない。しかも私は尖端恐怖症気味だったので、隣席の編み棒は辛かった。「むかつく」けど文句も言えず、辛すぎるときには立って別の車両に移ったこともある。冬の季語としての「毛糸編む」。たいていの句が微笑を伴った作りになっているのに、暮石はとても不機嫌である。この不機嫌が、読者にはどこかユーモラスにも響くところに味がある。いま思い出したが、二十年ほど前、ラジオをはじめたころのスタジオでの相棒が、毛糸を編みながら放送しはじめたのにはたまげた。しかも、生放送。聞いている人は、彼女が編み棒を操りながら喋っているとは知らなかったろうが、目の前の私としては、素朴に「ああ女は強し」と思いましたね。『右城暮石「天狼」発表全句』(1999)所収。(清水哲男)


November 17111999

 寒夜哉煮売の鍋の火のきほひ

                           含 粘

い出しては、柴田宵曲の『古句を観る』(岩波文庫・緑106-1)を拾い読みする。元禄期の無名作家の俳句ばかりを集めて解説した本だ。解説も面白いが、当時の風俗を知る上でも貴重な一本である。この句は、秋の部の最後に紹介されている。「煮売」は、魚や野菜を煮ながら売る商売で、作者は煮られているものよりも、煮ている火の勢いに見入っている。薪の炎だろう。寒い夜の人の心の動きが、よくつかまえられている。電灯などない時代だから、よけいに炎の色は鮮やかだったろうが、現代人にも通じる世界だ。宵曲は上五字の「寒夜哉」に注目して、こう書いている。「『寒夜哉』という風な言葉を上五字に置く句法は、俳句において非常に珍しいというほどでもないが、下五字に置いたのよりは遥に例が少い。それだけ用いにくいということにもなるが、詠歎的な気持は下五字を『かな』で結ぶよりも強く現れるような気がする。この句は『火のきほひ』の一語によって、上の『寒夜哉』を引締めているようである」。そこで私は、いろいろと「寒夜哉」の位置を替えて遊んでみた。やっぱり、上五字にもってくるのが、いちばん納まりがよいようである。(清水哲男)


November 18111999

 焼芋の固きをつつく火箸かな

                           室生犀星

芋といっても、いろいろな焼き方がある。焚き火で焼いたり、網やフライパンで焼いたり、石焼芋もあるし、近年では電子レンジでチンしたりもする。もっとも、電子レンジで調理する場合は「焼く」という言葉は不適当だ。といって「蒸かす」も適当でないし、やはり「チンする」とでも言うしかないか(笑)。句の場合は、囲炉裏で焼いている。犀星の時代にはごく普通の焼き方であり、焼け具合を見るために、火箸でつついている図だ。短気だったのだろう。焼けるのが待ち切れなくて「固きをつつ」いているわけだが、一人で焼いているのならばともかく、こうした振る舞いは周囲の人に嫌われたと思う。芋だけではなく、ついでに囲炉裏の火までつつきまわす人もおり、貧乏性の烙印を捺されたりもした。もちろん犀星は自分の行為に風流を感じて作ったのだろうが、あまり褒められた姿ではない。……と、百姓の子としては言っておきたくなる。囲炉裏での火箸の扱いは、ゆったりとした心持ちのなかで、はじめて(風流)味が出てくる。犀星は百姓のプロじゃなかったから仕方がないけれど、火箸の上げ下ろしは、あれでなかなか難しいのである。そう簡単に、カッコよくはできないものなのだ。(清水哲男)


November 19111999

 芒野やモデルハウスに猫の声

                           守屋明俊

を探していたころ、よくモデルハウスを見に出かけた。新聞広告などをたよりに行ってみると、句のようにまことに殺風景な場所に建っている。にわかづくりの芝居小屋か映画のセットのようだ。一歩なかに入ると、ピカピカの流し台やら豪華な応接セットやらがしつらえられていて、いったい何様のお住まいかと思ったものだ。安い買い物ではないので、もちろん慎重にあちこちを見る。豪華な応接セットの代わりに、我が家の貧弱なそれを置いてみたとイメージしてみたりもした。しかし、なかなか決断するにはいたらない。何箇所かを見て回っているうちに気がついたことだが、モデルルームが決め手に欠けるのは、そこに人の住んでいる気配がないことだった。当たり前だけれど、生き物の気配のない住居は、いくら住居らしくデザインされていても空虚なものだ。おそらく作者も、そんな気がしていたのだろう。が、そこにどこからか小さく猫の鳴き声が聞こえてきた。なんだかホッとしたような気持ち……。現代的な生活者の感覚を、さりげないが鋭くとらえた佳句と言えよう。ただし、この句。作者が外にいて、中から猫の声がしたとも受け取れる。それなりに面白いが、モデルルームに猫が入り込むのは無理だろう。「俳句界」(1998年12月号)所載。(清水哲男)


November 20111999

 木枯しや小学生の立ち話

                           藤堂洗火

ろそろ夕暮れに近いころの情景だろう。下校途中の小学生が、強い北風に吹かれながら立ち話をしている。通りかかった作者は「こんなに寒いのに、わざわざ立ち止まって何の話をしているのだろう」と一瞬訝りながら、傍らを通り過ぎた。ただそれだけのことなのだが、巧みなスケッチ句だ。「子どもは風の子、元気な子」と言うが、そんなふうに作者はとらえていない。むしろ寒さを我慢しながら熱心に話している様子が印象的だったからこそ、こういう句に仕上がったのだと思う。そういえば子どもだったころ、たいした話でもないのに、寒くてもよく立ち話をしたっけな。そんな大人の郷愁を誘うようなシーンでもある。ところで、立ち話をしているのは男の子だろうか、それとも女の子だろうか。私には、なんとなく髪の毛を押さえながら話している女の子同士の感じがする。「そりゃ女の子に決まってるよ。なんてったって、主婦の予備軍だもの」。誰ですか、そんな失礼なことを、今つぶやいたのは……。(清水哲男)


November 21111999

 少年は今もピッチャー黄葉散る

                           大串 章

新作。先週の日曜日(11月14日)に、京都は宇治で作られた句だ。宇治句会の折りに学生時代の下宿先を訪ね、近所の小公園でキャッチボールをする父子を見かけて作ったのだという(私信より)。「今も」が利いている。つまり、いつの時代にも、父子のキャッチボールでは「少年」がピッチャー役となる。逆のケースは、見たことがない。父親がピッチャーだと、強いボールをキャッチできないという子どもの非力のせいもあるが、もう一つには、野球ではやはりピッチャーが主役ということがある。子どもを主役にタテて、父親が遊んでやっているというわけだ。この関係には、日頃遊んでやれない父親としての罪滅ぼしの面も、少しは心理的にあるのかもしれない。休日の父子のキャッチボールでは、とにかく全国的に、この関係が連綿としてつづいてきている。作者は、そのことに心を惹かれている。似た光景を、これまでに何度見てきたことか。その感慨が「黄葉散る」にこめられている。野球好きでないと、このさりげないシーンをこのように拾い上げることはできない。若き日の職場野球での大串章は「キャッチャー」だったと聞いたことがある。(清水哲男)


November 22111999

 舎利舎利と枯草を行く女かな

                           永田耕衣

景かもしれない。枯草原を女が歩いている。和服の裾が枯草に触れて、そのたびにかすかな音がする。しゃりしゃり、と。それを作者は「舎利舎利」と聞きなしているわけだが、若い読者には駄洒落としか思えないだろう。しかし、七十代も後半の作者は大真面目だ。この場合の「舎利」は火葬の後の骨のこと。晩年にさしかかったという自覚のある耕衣には、しごく素直にそう聞こえたのである。このとき女は幽霊のようであり、自分をあの世に誘う使者のようでもある。といって、暗い句ではない。むしろ、死を従容として受け入れようとする心が描いた「清澄な世界」とでも言うべきか。明晰なイリュージョン。私ももう少し歳を重ねることになったら、かくのごとき境地にあやかりたいものだ。ところで、幽霊とお化けとはどう違うのか。簡単に言うと、幽霊は「人」につき、お化けは「場所」につく。柳の下に出る幽霊は「場所」についているようだが、実は違う。あれは、誰にも見えるわけじゃない。とりつかれた人にだけしか見えないのだから、どうかご安心を(笑)。そろそろ柳の散る季節。寒がりの幽霊は、もう出なくなる。『殺佛』(1978)所収。(清水哲男)


November 23111999

 ひとり燃ゆ田の火勤労感謝の日

                           亀井絲游

労感謝の日の定義は「勤労をたっとび、生産を祝い、国民がたがいに感謝しあう日」(1948年制定「国民の祝日に関する法律」)というものだ。どうも、しっくり来ない。元来が「新嘗祭(にいなめさい)」であり、新穀に感謝する日であったのが、皇室行事ゆえに、戦後そこらへんを曖昧化した祝日だからだ。「勤労感謝」という言葉から、この法的定義が浮かび上がるわけもなく、日本語としても変なのである。したがって、私たちは半世紀もの間、なんだかよくわからない顔をしながら、この日を休んできた。俳人たちも困惑してきたようで、これぞという句にはお目にかかったことがない。「窓に富士得たる勤労感謝の日」(山下滋久)と詠まれても、作者には失礼ながら、「ウッソォ」と言いたくなる。たまたま快晴だっただけのことで、この日をたとえば元日のように、いかにも晴朗な気分で迎えたというわけではないだろう。その点、掲句には曖昧な気持ちが曖昧のままに表現されていて、面白いと思った。冬を迎える前に、田に散らばったものを片づけ燃やしている。夕暮れになって、火の赤さがちろちろと目に写る。そういえば今日は「勤労感謝の日」だけれど、田で働く自分にとっては関係がないな。何かへの皮肉ではなく、祝日とは無縁の自分を淡々と詠んでいるところが、凡百の「勤労感謝の日」の句のなかでは傑出している。(清水哲男)


November 24111999

 血を売って愉快な青年たちの冬

                           鈴木六林男

までは無くなったが、エイズ問題が起こる前まで、売血という仕組みがあった。血液バンクというものがあり、そこに行けばすぐ自分の血が金になるのである。これはある種の人たちにとっては恰好のアルバイトであり、最後の生活手段でもあった。この句を読むと、そうした昭和三十年代頃の東京の貧しさや、夢と希望(のようなもの)があった私の青春時代を思い出す。私は血を売ったことはなかったけれど、私の周辺にも万引きと売血で生きている若者が何人もいた。青春は暗く貧しい。だが、絶対的といえるほど愉快でもある。この句はそうした青春を振り返り、その時代の気分だけを抽出して、現在に生き生きと蘇らせている。それにしても、このような句を、七十代の作者が新作として作っているのですぞ。「俳句朝日」(1999年12月号・特集「この一年の成果」)所載。(井川博年)


November 25111999

 蕪汁に世辞なき人を愛しけり

                           高田蝶衣

汁(かぶらじる)は、蕪を入れたみそ汁。寒くなると蕪に甘味が出てくるので、より美味になる。素朴で淡泊な味わいが「世辞なき人」に通じていて、よくわかる句だ。農家だった頃の我が家では、冬の間は毎日のように食べていた。みそ汁ばかりでは飽きてくるので、すまし汁にもしたが、私はこちらのほうを好んだ。この句も、すまし汁のほうではないだろうか。みそ汁よりも、もっと蕪の素朴な味が生きてくるからだ。そして私はといえば、あつあつのすまし汁をご飯の上にじゃーっとかけて食べていた。この食べ方を「ネコ飯」と嫌う人もいるけれど、別の表現をしておけば、ほとんど「雑炊」だとも言えるのであり、寒い日にはとても身体が暖まる。いつの頃からか、じゃーっとはやらなくなったが、蕪の入った雑炊はいまだに好物だ。が、昨今の東京では、なかなか美味な蕪にはお目にかかれない。夏のキュウリと冬のカブ。好物の味が、どんどん下落していく悲しさよ。ところで、ネコはカブを食べますか。(清水哲男)


November 26111999

 ロボットと話している児日短か

                           八木三日女

後「前衛俳句」運動のトップランナーであった三日女(「満開の森の陰部の鰓呼吸」「赤い地図なお鮮血の絹を裂く」など)の近作だ(1995)。一読、ほほえましいような光景ではあるが、具体的に場面を想像してみる(たとえば「鉄腕アトム」と話している子供)と、不気味な句に思えてくる。アトムとまではいかないが、最近では人語に反応するロボット玩具が開発されており、句の場景も絵空事ではなくなってきた。不気味というのは、感情を持たない話し相手に感情移入できているという錯覚のそれである。ロボットと話すことで癒される心のありようは、不気味だとしか言いようがない。原理的に考えれば、ロボットに言語を埋め込むのは所有者であるから、ロボットとの対話は自身の一部との会話に他ならず、それもいちいち音声化する必要のない部分との対話である。対話型のロボットは、所有者に都合のよい「甘えの構造」の外在化でしかないだろう。そしてこのとき「日短か(「ひぃみじか」と関西弁で発音してください)」というのは、人類の冬の季節における「短日」の意味に受け取れる。世紀末にふさわしい一句と言うべきだ。(清水哲男)


November 27111999

 鞄あけ物探がす人冬木中

                           高浜虚子

が落ちた冬の木立。少し遠くの方で、鞄をあけて一心に何かを探している人の姿が透かし見えている。見ず知らずの他人でも、物を探しているところを見かけると、こちらまで落ち着かない気分になる。あれは、なぜだろうか。実に不思議な気分だ。地面に落ちた物を探しているのなら一緒に探すこともできるが、鞄の中ではそうもいかない。この寒空の下、立ち止まって探す必要があるのだから、よほど大切な物なのだろう。これから仕事先に届ける書類かもしれないし、貯金通帳や印鑑の類かもしれない。作者は気になりつつ、その場を通りすぎていく。なんでもない句のようだけれど、さすがに虚子のスケッチは巧みだ。冬木中に鞄をあけている男の姿。この切り取りで、ぴしゃりと絵になっている。ただし、これがいまどきに作られた句だと、探し物は「携帯電話」くらいだろうと想像されるので、そんなに面白みはなくなってしまう。何を探しているのか皆目見当がつかないところに、寒い季節の味わいも出ているのである。『六百句』(1946)所収。(清水哲男)


November 28111999

 穹に出入りす白鳥の股関節

                           宇多喜代子

者は現代の人だが、「白鳥」を「くぐい」と読ませている。「くぐい(鵠)」は白鳥の古称、ないしは雅語である。「穹」は「おおぞら」だろう。つまり、上五七で句の雰囲気を太古に設定することにより、悠久の時間性を伝えようとしている。そして、下五でいきなり「股関節」という現代語を登場させて、太古と今とをはっしと結びつけた。おおよそ、そのような演出かと思われる。ここで読者は、水面にあるときは隠されている白鳥の「股関節」に思いが至る。思いが至ると同時に、再び上五に視線が戻る。もう一度、句を読み直す。そして、白鳥のいわば「隠し所」が、大空に飛翔するときは、常に露わになっていることにあらためて気がつくのである。それは太古の昔からであり、現在でも同じことである。しかし、飛翔する白鳥にはもとより、ひとかけらの羞恥の心もないであろう。この無垢の世界。「股関節」というナマな言葉を繰り出して、逆に白鳥の清澄性を際立たせている腕の冴え。小賢しく読めば、一種の人間批判の世界でもあるけれど、私としてはこのままの姿で受け止めておきたい。白鳥を見るたびに、この句を思い出すだろう。『半島』(1988)所収。(清水哲男)


November 29111999

 狐火を伝へ北越雪譜かな

                           阿波野青畝

火とも呼ばれる「狐火」の正体は、よくわかっていない。冬の夜、遠くに見える原因不明の光のことだ。たぶん死んだ獣の骨が発する燐光の類だろうが、それを昔の人は狐の仕業だとした。よくわからない現象は、とりあえず狐の妖術のせいにして納得していたというわけだ。目撃談はいろいろとあり、なかでも鈴木牧之『北越雪譜』(天保年間の刊行)のそれはリアルなので、今日の辞書の定義には、眉に唾をつけた恰好ながら多く採用されている。「我が目前に視しは、ある夜深更の頃、例の二階の窓の隙に火のうつるを怪しみ、その隙間より覗きみれば孤雪の掘場の上に在りて口より火をいだす。よくみれば呼息(つくいき)の燃ゆるなり。(中略)おもしろければしばらくのぞきゐたりしが、火をいだす時といださゞる時あり。かれが肚中の気に応ずるならん」。口から火を吐いていたのを確かに見たというのであるが、これも理屈をつければ、狐が獣骨を銜えていたのではないかと推察される。いずれにせよ、狐火が見える条件には漆黒の闇が必要だ。句は、牧之の時代の真の闇の深さを思っている。『不勝簪』(1974-1978)所収。(清水哲男)


November 30111999

 あたゝかき十一月もすみにけり

                           中村草田男

から、この句が好きだ。なんということもないのだけれど、心がやすまる。実際に今年の十一月も暖かかったが、そういう事実を越えて、何か懐かしい響きを伝えてくれる句だ。意図的に使われている平仮名の、心理的な効果によるものだろう。字面は詠嘆的なのだが、詠嘆がまといがちな大袈裟な身振りを、やわらかい平仮名がくるんでしまっている。ほど良い酔い心地。そんな感じもする。そしてちょっびりと、同時に明日からの「酔いざめの師走」が暗示されていて、そこがまた読む者の琴線に微妙に触れてくるのだ。山本健吉が「腸詰俳句」と言った草田男独特の句境にはほど遠いところに位置する作品だが、草田男のもう一つの魅力が存分に発揮されている句だと思う。草田男は虚子門。やはり「ホトトギス」の子なのであった。(清水哲男)




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