工藤問題。ダイエーが不始末を詫び見解文書を撤回した。ついでにフロントも入れ替えよ。




1999ソスN11ソスソス4ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 04111999

 秋のくれ大政通るその肩幅

                           入江亮太郎

書に「文久生れの祖母云、大政さんといふ人はなう肩はばの広い人でなう」とある。「大政(おおまさ)さん」とは実在の人物。清水次郎長一家二十八人衆のうちの一の子分で、怪力無双の槍の使い手であった。広沢虎造の浪曲に「清水港は鬼より恐い、大政小政の声がする」とうたわれている。昔の駿河の人はみな、次郎長はもとより主だった子分にいたるまでを、彼女のように必ず「さん」づけで呼んでいたという。決して、呼び捨てにはしなかった。人気のほどがうかがえるが、それも単なる博打うちを脱した次郎長晩年の社会的功績によるものだろう。清水姓の私は、子供の頃から次郎長一家が好きだった。といっても浪曲や映画の世界のなかでの贔屓であるが、森の石松が都鳥三兄弟に騙し討ちにされるシーンなど、涙無しには見ていられなかった。だから、作者のおばあさんのように実際の大政を見たことがあるというだけで、その人を尊敬してしまう。そうか、肩幅の広い人だったのか。でも、背は高くなかったろうな。高ければ、彼女はまずそのことを言ったはずだから……。句はそっちのけで、そんな大政の姿を想像してしまった。大政の墓は清水市の梅蔭寺(ばいいんじ)にあり、親分の次郎長を守るようにして小政らと眠っている。『入江亮太郎・小裕句集』(1997)所収。(清水哲男)


November 03111999

 酒さめて去る紅葉谷一列に

                           島 将五

葉狩りのシーズンだ。今日あたりも、出かける人が多いだろう。ただし、行楽に出かけていくのはよい気分だけれど、帰りがこうなるので、酒飲みは困る。明るい日ざしのなかで紅葉を愛でながら、仕事を忘れ時間を忘れて飲む酒は、たしかにうまい。でも、そのうちに日が西に傾いてきて、幹事役が「そろそろ下りないと暗くなってしまうぞ、なにしろ秋の日は釣瓶落しだからな」などとみんなをうながし、しぶしぶ腰を上げることになる。そんな頃には、もうだいぶ気温も下がってきて、せっかくの酒もすぐにさめてしまう。後は、谷あいの細道を吹く秋風が身にしみるだけ。「一列に」という表現が、酒飲みのじくじたる心持ちをよく告げている。あと、どのくらい歩けばよいのだろう。そんなことばかりを思ってしまう。とにかく、いつだって帰り道とは遠いものである。みなさん、御苦労なこってすなア。……と、これは今日も仕事でどこにも出かけられない私の負け惜しみ(笑)だ。『萍水』(1981)所収。(清水哲男)


November 02111999

 栗剥くは上手所帯は崩しても

                           小沢信男

の剥(む)き方は、あれでなかなか難しい。剥いているのは女性だろう。それも、小さな飲屋の「おかみ」というところか。客の前で生の栗を剥くはずはないから、茹でた栗か焼き栗かを、実に器用に剥いている。剥きながら、問わず語りに過去の不幸を語っているのかもしれない。栗を上手に剥くことと所帯をうまくやっていくことの間には、さしたる関係もないのであるが、作者はいささかの好意をもっている女性だけに、その関係を濃いものとしてとらえている。こんなに器用なのだから家事全般については、何の落ち度もなかったろうに……。人生はうまくいかないものだなア、と。このとき「所帯は崩しても」に皮肉の意図はなく、哀感を強調するための用語法である。大きな「所帯」と小さな「栗」との対比が利いている。彼女が所帯を崩すには、もとよりそれなりの事情があったのだろうが、そこまでを直接尋ねるわけにはいかない。たいていの身の上話は、どこかに曖昧な要素を残しながら終わってしまうものだ。それでいいのである。小津映画の一シーンのような句だとも思った。『足の裏』(1998)所収。(清水哲男)




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