午後から原宿で詩コンテストの公開選考会。これで今年の大仕事はおしまい。……かなア。




1999ソスN11ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 07111999

 銀杏黄葉大阪馴染なく歩む

                           宮本幸二

杏黄葉(いちょうもみじ)は、この四文字で一つの季語。他にも「葡萄紅葉」「雑木紅葉」など、同じ「もみじ」でも、いくつか特別扱いの「もみじ」季語がある。ところで、一般的に「もみじ」ないしは「こうよう」を「紅葉」と表記するようになったのは平安時代以降のことで、それまでは「黄葉」と書くのがが普通だったという。ちなみに、Macintosh添付のワープロで「もみじ」と打つと「紅葉」としか出てこない。あなたのワープロ辞書ではどうですか。句の舞台は、晩秋の大阪の街。おそらく、梅田から難波に通じる御堂筋だろう。ビジネス街だから、作者は出張で出かけたのだ。仕事もすんで御堂筋を大阪駅に向かって歩いている。馴染みのない街を歩くのは所在ないもので、街全体が無表情に見える。延々とつづく銀杏並木の黄葉は風情を誘うどころか、かえって街をより抽象化しているようだ。私も、サラリーマン時代に何度か出張を経験したが、好きではなかった。とくに一泊して帰る日が休日だと、朝方のビジネス街の人影はまばらだし、なぜ俺はこんなところを歩いているのかと無性に腹立たしかった。(清水哲男)


November 06111999

 竜胆の花暗きまで濃かりけり

                           殿村菟絲子

胆(りんどう)は、根を噛むと非常に苦いので、竜の肝のようだということから命名されたようだ。日のあたるときにだけ開き、雨天のときや夜間は閉じてしまう。句は、閉じてもなお自分の色を失わぬ竜胆の花に、気丈な性質を見てとっているのだろう。もちろん、同時に花色の鮮やかさを賞賛している。この花はちょっと見には可憐だが、なかなかどうして、茎といい葉といい花といい、芯の強い印象は相当なものである。私はいつも、気の強い女性を連想させられてしまう。『枕草子』にも、こうある。「龍膽は、枝ざしなどもむつかしけれど、こと花どものみな霜枯れたるに、いとはなやかなる色あひにてさし出でたる、いとをかし」。繁殖させようとすると意のままにならないが、自然体だと寒くなっても凛として美々しく咲いていると言うのである。清少納言と私の感受性はよく食い違うけれど、こと竜胆に関しては一致した。いまどきの花屋の店先には、初秋を待たずに切花として登場してくるが、あの色はいけない。野生の花にくらべると、深みがない。竜胆もまた、やはり野においておくべき草花である。(清水哲男)


November 05111999

 何やらがもげて悲しき熊手かな

                           高浜虚子

日は十一月最初の酉(とり)の日で、一の酉。十一月の酉の日は、鳳(大鳥)神社を中心とした祭礼日だ。江戸中期からはじまった富貴開運のお祭りで、台東区千束の鳳神社をはじめ、各神社が大勢の人出でにぎわう。したがって、東京以外の方には馴染みがないだろう。私も、京都にいた頃は知らなかった。大阪でいえば、十日戎といったところか。境内には市が立ち、熊手、おかめの面、入り船、黄金餅などの縁起物が売られる。「熊手」は熊の手を模した福徳をかきあつめる意味の竹製のもので、小さなおかめの面や大判小判、酒桝やら七福神やらがごちゃごちゃと取り付けられており、私のようなごちゃごちゃ好きな人間にとっては、見ているだけで楽しい。虚子は、そのごちゃごちゃの何かが「もげて」しまったと言っている。一瞬もげたのはわかったのだが、なにせ押すな押すなの人込みの中だ。拾うこともかなわず、ごちゃごちゃのなかの何がもげたのかもわからない。とにかく、とても損をしたような気分になったのだ。面白い着眼であり、大の男の悲しい気持ちもよくわかる。ちなみに今年は三の酉まであって、三の酉まである年は火事が多いと言い伝えられてきた。御用心。(清水哲男)




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