Mac0S9にしたら愛用のフォントがブラウザー上で崩れてしまった。新OSに悩みは付き物。




1999ソスN11ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 08111999

 山の子が独楽をつくるよ冬が来る

                           橋本多佳子

楽は新年の季語だが、ここでは「冬が来る」のだから「立冬」に分類する。文字どおりの「山の子」であった私には、思い当たる句だ。山国への寒さの訪れは早い。いかな「山の子」でも、この季節になると山野を駆けめぐるなどの遊びはしなくなる。遊び場を、室内に切り替えるのだ。女の子はお手玉遊びをやっていたようだが、男の子は独楽回しに熱中した。農家には土間がある。そこで回す。村の万屋(よろずや)には出来合いの独楽も売ってはいたけれど、誰も買わなかった。もっと安い鉄の心棒と輪だけのセットを買ってきて、本体は小刀で丹念に木を削って作った。仕上げるのには、何日もかかった。ただし、作者が見たのはもっと素朴な独楽づくりの様子だったのかもしれない。木の実に爪楊枝のような細い木をさすものとか、丸い厚紙にマッチ棒の心棒をさすだけのものとか……。そういうものも作ったが、やはり鉄の心棒と輪とで作った独楽は頑丈だったし、互いにはねとばしあう遊びもできたので、なんだか知らないが「ホンカクテキ」だと思っていた。おかげで、いまでも独楽はちゃんと回せる。もはや、淋しい技術に成り果ててはいるけれど。(清水哲男)


November 07111999

 銀杏黄葉大阪馴染なく歩む

                           宮本幸二

杏黄葉(いちょうもみじ)は、この四文字で一つの季語。他にも「葡萄紅葉」「雑木紅葉」など、同じ「もみじ」でも、いくつか特別扱いの「もみじ」季語がある。ところで、一般的に「もみじ」ないしは「こうよう」を「紅葉」と表記するようになったのは平安時代以降のことで、それまでは「黄葉」と書くのがが普通だったという。ちなみに、Macintosh添付のワープロで「もみじ」と打つと「紅葉」としか出てこない。あなたのワープロ辞書ではどうですか。句の舞台は、晩秋の大阪の街。おそらく、梅田から難波に通じる御堂筋だろう。ビジネス街だから、作者は出張で出かけたのだ。仕事もすんで御堂筋を大阪駅に向かって歩いている。馴染みのない街を歩くのは所在ないもので、街全体が無表情に見える。延々とつづく銀杏並木の黄葉は風情を誘うどころか、かえって街をより抽象化しているようだ。私も、サラリーマン時代に何度か出張を経験したが、好きではなかった。とくに一泊して帰る日が休日だと、朝方のビジネス街の人影はまばらだし、なぜ俺はこんなところを歩いているのかと無性に腹立たしかった。(清水哲男)


November 06111999

 竜胆の花暗きまで濃かりけり

                           殿村菟絲子

胆(りんどう)は、根を噛むと非常に苦いので、竜の肝のようだということから命名されたようだ。日のあたるときにだけ開き、雨天のときや夜間は閉じてしまう。句は、閉じてもなお自分の色を失わぬ竜胆の花に、気丈な性質を見てとっているのだろう。もちろん、同時に花色の鮮やかさを賞賛している。この花はちょっと見には可憐だが、なかなかどうして、茎といい葉といい花といい、芯の強い印象は相当なものである。私はいつも、気の強い女性を連想させられてしまう。『枕草子』にも、こうある。「龍膽は、枝ざしなどもむつかしけれど、こと花どものみな霜枯れたるに、いとはなやかなる色あひにてさし出でたる、いとをかし」。繁殖させようとすると意のままにならないが、自然体だと寒くなっても凛として美々しく咲いていると言うのである。清少納言と私の感受性はよく食い違うけれど、こと竜胆に関しては一致した。いまどきの花屋の店先には、初秋を待たずに切花として登場してくるが、あの色はいけない。野生の花にくらべると、深みがない。竜胆もまた、やはり野においておくべき草花である。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます